復興の途上 消えぬ悲しみ、きょう東日本大震災発生から5年

▲ 前進と停滞─旧気仙中校舎/気仙川河口に位置し、震災遺構として残る陸前高田市立気仙中学校の旧校舎2階。がれきの向こう側は、5年という時間がもたらした前進tの停滞、二つの現実が入り混じっていた。散乱した校舎内は、震災直後の府警を呼び起こす。  

 

 気仙に暮らす人々に大きな傷跡を残した東日本大震災は、きょうで発生から5年を迎える。これまでの間、各種の基盤復旧や住宅の高台移転の進展が目に見えるようになり、かさ上げがほどこされたまちの中心部にふたたび活気を吹き込もうとする動きも出てきた。一方で、多くのものに「仮」が付く環境は続き、不自由な生活を余儀なくされる被災者も。歳月の流れとともに二極化の様相も表れており、依然としてふるさと復興への道のりは長く険しい。

 

前進と停滞──旧気仙中校舎

 

 気仙川河口部に位置し、震災遺構として残る陸前高田市立気仙中学校の旧校舎2階。がれきの向こう側は、5年という時間がもたらした前進と停滞、二つの現実が入り交じっている=写真

 散乱した校舎内は、発災直後の風景を呼び起こす。外を見渡すと、目に入るのは国内外から注目を浴び続ける奇跡の一本松。その立ち姿を守るように、海面高12・5㍍の巨大防潮堤整備が進む。奥には、被災者の入居利用が始まった8階建ての災害公営住宅が見える。

 かつて住宅や商業施設が建ち並んでいた高田町の方向には、盛り土しかない。生活再建は、まだ途上にある。

 変わりゆく古里の風景。しかし、住民の心に刻まれた爪痕や悲しみ、そして震災前の思い出は簡単に消え去りはしない。震災遺構は、あの日から気仙の今を静かに見つめ続ける。(2面に関連特集)

 

 

復興への模索続く

 

 平成23年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とし、国内観測史上最大のマグニチュード9・0を記録した大地震により、気仙沿岸は大津波に襲われ、未曾有の被害を受けた。

 県総合防災室のまとめによると、2月29日現在、気仙両市での死者は大船渡市340人、陸前高田市1556人。震災による負傷の悪化などにより、大船渡市では79人、陸前高田市では46人が亡くなった。行方が分かっていないのは大船渡市79人、陸前高田市205人。月命日に合わせた警察による捜索活動は、いまも行われている。

 全半壊家屋は両市合わせて7982棟。3市町に建設された応急仮設住宅には、4912人が暮らしている。高台への移転団地や公営住宅の整備は27年度で大半が完了する見通しにある中、仮設入居者は昨年に比べて3000人ほど減ったが、経済面などを理由に行き先を決められずにいる人たちも少なからずおり、個々の事情をくみ取った細やかな支えの必要性が増す。同時に、学校グラウンドに建てられた仮設をできる限り早期に撤去することも求められている。

 かさ上げがほどこされた両市の中心部では、失われたにぎわいを取り戻すべく、商業集積の動きが本格化。大船渡では、あす開業を迎えるホテルもあり、新しいまちの姿の輪郭が表れてきた。

 中心市街地再生が加速していく一方で、後継者不在などを背景に仮設店舗の使用期限終了を待って廃業を考える経営者も。

 また、多くの事業所が再開を果たすも、労働力不足が課題に。防潮堤など防災施設の整備スケジュールが後ろ倒し傾向にあるのは、用地確保に時間を要すうえ、専門技術者など人的資源の不足が影響している。

 基盤整備や暮らしの再生事業に重点を置いた、国による集中復興期間は間もなく幕を閉じ、被災自治体主体の持続可能な地域づくりも促す「復興・創生期間」が始まろうとしている。

 気仙が被災地と呼ばれるようになって5年。さまざまな分野において、歩みを前に進めるものと足踏みせざるを得ないもの、それぞれの色合いが濃さを増しつつある中で、平穏な暮らしを取り戻すための模索は続く。

 

各市町で追悼式

大船渡は県と合同

参列者の献花など

 

 大船渡市では市と県の合同追悼式がリアスホールで、陸前高田市の追悼式が市コミュニティホールで、それぞれ午後2時30分から開かれる。

 いずれも無宗教、献花方式。国の追悼式映像中継に続き、遺族代表の追悼のことば、参列者による献花などを行う。

 参列者以外の献花は大船渡では式終了から午後7時まで、陸前高田では屋外に特設テントも設け、午前10時から正午、式終了から午後6時まで。

 住田町では、下有住の生涯スポーツセンターで「3・11追悼の集い」が午後1時から3時まで開かれる。出席者らで献花を行う。