震災7年―忘れえぬ思い①、黄川田徹さん(64)

▲ 復興事業が進む被災跡地を見つめる黄川田さん=陸前高田市高田町

個人と公人のはざまで/自らに課したけじめ

 

 東日本大震災の発生から丸7年となった。壊滅的な被害を受けた気仙両市の沿岸部では、住宅や社会基盤の建て直しが進み、かさ上げ地には新しい街が形成されつつある。復興の過程にあってめまぐるしく変わっていく風景。大切な人や場所を失った人々はそのさまをどのように見つめ、感じているのか、尋ね歩く。
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 東日本大震災当時の国会議員でただ一人、遺族となった黄川田徹さん(64)=陸前高田市高田町。平成7年、同市職員から県議に転身。2期目の任期途中で臨んだ同12年の衆院選で初当選。連続6期を務め、29年10月、総選挙に出馬せず勇退した。
 震災発生時は4期目の任期中で、東京の議員会館にいた。飛行機で秋田を経由して岩手に入ったのが3月15日。市内にあった自宅と事務所は流された。無事に逃げたはずと思っていた、婿入り先の両親である精也さん(当時81)と洋子さん(同75)、妻の敬子さん(同51)、長男の駿一さん(同29)の行方は分からなかった。
 3月のうちに駿一さんと洋子さんが見つかった。精也さんは千葉で火葬されており、のちの歯型照合で判明。敬子さんは見つからないまま。最愛の家族を失った悲しみと、公職にある身としての復旧・復興への責務。そのはざまで心揺れる日々が続いた。
 3カ月がたったころ、敬子さんの死亡届を提出。「気持ちを押し殺すとはいかなかったが、復興に尽くすため、自分にけじめを課したんだ」と振り返る。仮設住宅入居日の8月11日、黄川田さんの生まれ里である広田の海で、敬子さんは見つかった。
 ごく近い親族のみで営んだ一周忌が、4人の葬儀代わりだった。黄川田家の屋号は川村屋。高田町の光照寺にある墓の隣には、先々代で市議会議長も務めた故・源吉氏が建てた菩堤塔がある。明治期の没落からの再興という川村の家の歩みを刻んだものだ。
 一周忌に合わせ、黄川田さんは源吉氏がしたのと同じように、菩提塔を墓地に建てた。4人の戒名と俗名のほか、大津波による陸前高田の惨状も刻んだ。代が変わっても末永く語り継いでほしいとの願いを込めた。
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 昨年の七回忌を前に、区画整理の換地先となる高台に自宅が完成。ゆくゆくは、次男家族が暮らすという。
 新居には約1・5㍍×1㍍の絵を掲げた。22年の盆に家族や親せきで撮り、震災後に見つかった集合写真をもとにしたもの。市職員時代の教育長で、いまは画家としても活躍する熊谷睦男さん(83)=高田町=に依頼した。氷上山から見下ろしたまちや海を背景に、亡くなった4人も穏やかにほほ笑む。
 ピアノをこよなく愛した敬子さんは、代議士の妻としての暮らしが一段落した暁には、夫婦でオーストリアやドイツをめぐりたいと、常々話していたという。
 「いつか連れてくからな」――。果たせずじまいの約束が胸に残り、公務でヨーロッパへ赴く際には、一部を墓に納めずにいた敬子さんの遺骨を荷物にしのばせた。
 引退後の生活が落ち着いた先月。ユーラシア大陸の最西端、ポルトガルのロカ岬へ足を運び、大西洋へと散骨した。「母ちゃん、いろんなところ見物して、最後は高田に帰ってくっぺしな」。そう声を掛けて見送った。
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 家族の弔い、自宅再建、政治家引退。けじめ、区切りをつけてきたが、「津波がなければ、もし生きていたらと、考えることもある」と漏らす。
 復興のさなか、様変わりしていく郷土の景色をいまは一市民として見つめる。「震災前に心を残すのは遺族となれば当然のこと。まちの復興と心の復興のスタートラインは違う。それでも、まちを再生して次につなげるための基本となるところは、しっかりやらなければならないんだ」。自身に言い聞かせるよう語った。(月1回掲載)