復興の伴走者─被災地に寄り添い続けて─⑥山﨑 充さん(67)=販路拡大コーディネーター=

「産品の魅力発見・発信を」
本県沿岸舞台に駆け回る

 

 東日本大震災によって、沿岸部の多くの被災水産加工業者が販路を失った。あれから9年5カ月が経過したが、いまだ震災前の水準まで売り上げが回復していないという業者も多い。こうした中、県沿岸広域振興局から委嘱を受けた「販路拡大コーディネーター」として復興の現場に身を投じているのが、山﨑充さん=釜石市出身=だ。北は田野畑村、南は陸前高田市まで、約120㌔の本県沿岸部を舞台に、地区産品の販売促進などに奔走する。
 釜石市に生まれた山﨑さんは、宮城県内の大学を卒業後、東芝メディカル(現・キヤノンメディカルシステムズ)に入社。仙台支社に配属後は営業職として山形県や秋田県、盛岡市、山口県、千葉県など各地を巡ってきた。
 平成23年3月11日午後2時46分、山﨑さんは東京で激しい揺れに見舞われた。テレビを付けると、そこには被災地の凄惨な状況が映し出されていた。実家のある大槌町に住む母や姉とは連絡がついて無事を確認することができ、「心の底からほっとしたことを覚えている」という。
 同年5月中旬、車で釜石市に到着した。JR釜石駅を越えて市中心部に入った瞬間、変わり果てたまちの姿が目に飛び込んできた。防潮堤は崩れ、車があちこちに転がっていた。市街地では大勢の自衛隊員が復旧作業を展開していた。山﨑さんは涙を流しながら国道45号を走った。
 その年の秋、山﨑さんは「故郷に帰って復興の手伝いをしたい」と決意し、12月に勤め先に退職届を出した。妻も背中を押してくれ、千葉県内の自宅に家族を残して単身被災地へ向かった。
 盛岡市役所に勤めていた同級生に連絡したところ、川井村(現・宮古市川井)の廃校跡にボランティアのベースキャンプを作るという計画を聞き、現場に寝泊まりしながら全国から訪れるボランティアをバスで被災現場に送り迎えする活動に25年まで従事した。

 活動期間を終えたのち、千葉に戻ろうとしていたところで、県沿岸広域振興局の求人を友人から紹介された。
 仕事内容は、地域の水産加工工場の再建を支援するコーディネーター。「いよいよ復興のフェーズに関わることができる」と、すぐさま応募した。
 コーディネーターとして沿岸地域を飛び回り、被災水産加工業者の訪問を重ねた。国の復興支援策を案内し、活用してもらうよう呼びかける中で、〝行政の課題〟を感じ取った。
 「行政はホームページで告知するだけで、業者の方々はそれを見る余裕はなかった。また、大災害からの復興という、前例のない事態に対して柔軟に対応できていなかった」と振り返る。
 ここで、長年におよぶ山﨑さんの営業職としての経験が生かされた。たくさんの人に会う中で、再建支援だけでなく産品の販路拡大や観光客誘致、雇用のニーズの高さを実感。そのニーズに積極・柔軟に対応しながら自身の活動の幅を広げていった。
 沿岸地域を往復しながら、販路開拓のコーディネート、大手旅行代理店と組んだ被災地見学ツアーの企画、台湾に出向いてのインバウンドの誘致提案など、幅広い活動を展開した。

 山﨑さんは、気仙にも足しげく通っている。大船渡、陸前高田両市には週1回は欠かさず訪れ、農産物や海産物の販売などの相談に乗ったりする。仕事以外でも住田町に立ち寄り、歴史あるまちなみに感銘を受けたという。
 「気仙は人が明るく、若手が頑張っている。水産加工業も規模が大きく、もちろんモノもいい」と魅力を語る。
 その一方で、「震災前からの課題を解決しなければ、地域は発展していかない。復旧はしても真の復興にはならない」という思いを胸に抱える。
 「三陸地域の産業はもともと衰退傾向が見られたが、そこに震災が追い打ちをかけた。震災前よりも産品がよく売れ、少しでも外の人が訪れてくれるための活動を地道に続けるしかない」と山﨑さんは力を込める。
 岩手に戻って来てもうすぐ9年がたつ。「地元の人がまだ気づいていないだけで、気仙、三陸にはいいものがたくさんある。それを発見・発信するお手伝いをし、三陸を元気にしていきたい」──。一度、地元を離れたからこそ見えてくるものもある。
 単身Uターン者の挑戦は、三陸沿岸が〝真の復興〟を遂げるまで続く。
(月1回掲載)