東日本大震災10年/生きた証しと教訓伝える 市職員の刻銘碑建立 震災津波で犠牲の93人の名前記し庁舎敷地に(別写真あり)
令和3年12月1日付 1面

東日本大震災の津波で犠牲となった陸前高田市職員の名前を刻んだ刻銘碑が中心市街地の市庁舎敷地内に建立され、11月30日、現地で建立式が開かれた。遺族有志が意向確認に当たり、亡くなった111人のうち、93人の名前が記され、隣には市職員でつくる職員厚生会(戸羽良一会長理事)の慰霊碑も建てられた。追悼の碑が「無言の語り部」として殉職した職員の無念さ、肉親を奪われた遺族の思い、震災の教訓を後生に伝えていく。
刻銘碑を建てたのは「東日本大震災津波陸前高田市職員犠牲者家族の会」(藤野貢会長)。穏やかな青空の下で行われた建立式には、遺族や市職員合わせて約100人が出席した。
戸羽会長理事は「震災後、脇目を振ることなく事業を推進してきたが、壁に当たったとき思い出されるのは、かつての仲間だ」と惜しんだ。
戸羽太市長は「私自身、もっとできることがあったのではないかと、職員に避難を強く促すべきだったのではないかと、ずっと後悔している」と言葉を詰まらせ、「二度とこのような犠牲者を出さないよう、次の世代に復興したまちを引き継いでいく」と誓いを新たにした。
碑はそれぞれ黒御影石製、高さ1・5㍍で、長さは刻銘碑が2・2㍍、慰霊碑が1・7㍍。刻銘碑の裏には二つの句と遺族の思いを刻んだ。
市は中心市街地に震災追悼施設を整備しており、市内の津波犠牲者の名前を刻む刻銘板も建てられる。
市職員の遺族有志は昨年2月、刻銘板に「市職員殉職者」と記すよう求めたが、市職員以外の犠牲者との公平性の観点から実現しなかった。同施設とは別に、職員厚生会が津波で亡くなったかつての仲間を悼む慰霊碑の建立を決め、これに合わせて家族の会による刻銘碑設置に至った。
愛する家族を失った心の傷を抱える遺族の心境は一様ではない。ある遺族は「正直、名前を入れることで震災を思い出してしまうと悩んだ。でも息子が浮かばれないと思って刻むことを決めた」と言葉少なだった。
千葉県船橋市から駆けつけた井形眞寿夫さん(70)は、市立博物館の学芸員だった長男・智史さん(当時25)を亡くした。
3月11日の命日と8月のお盆に、旧博物館跡地や智史さんの下宿先、遺体が見つかったとされる場所に通い続けた。「かさ上げ工事などでまちが変わることに寂しさもあり、刻銘碑ができて心のよりどころができた。それでも残念な気持ちが消えることはない」と複雑な心境を語った。
有志約10人により進められた、遺族への意向確認も困難を極めた。柏崎美保子さん(70)=大船渡市三陸町吉浜=は、「知り合いをたどってようやく連絡を取ることができた人もいた。長い期間の中で、このまま進めていいのかと悩んだこともあった」と振り返る。
自身は三女の由衣さん(当時25)を失い、「娘に『これでいいのかな』と尋ねながらここまで来た。きっとお母さんの思いを受け止めて喜んでくれると思う」とうなずいた。
長女の紗央里さん(当時25)を亡くした家族の会の藤野会長(69)=広田町=は「ここまで紆余(うよ)曲折はあったが、念願の生きた証しを形にすることができた。刻銘碑が何十年、何百年たっても無言の語り部となっていることを信じてやまない。市は無言の語り部と向き合い、その声を心で聞き、二度とこのような犠牲者を出さないよう教訓としてほしい」と願いを込めた。