東日本大震災11年/確かな避難行動を 命を守るために(3㌻に続く)

▲ 高台につながる坂道を歩く訓練を繰り返し、避難行動を確認する=2月24日、大船渡町

 あの日の恐怖を知らない子どもたち。生まれ変わった街並みでの新生活。日ごろから安全な場所を確保する大切さに加え、津波の危険性がある場所から、避難行動を取る冷静さが、より重要となる。避難の大切さと習慣を、どう伝えるか。忘れてはならないもの、大切にすべき視点を、節目に考える。

 

伝える 児童たちへ
大船渡の放課後クラブ 坂道を歩いて上る大切さ


津波浸水地の施設

 

 大船渡市大船渡町の大船渡小学校グラウンド内。海側の一画に、放課後児童クラブ・うみねこキッズの施設がある。
 現在、通常利用で過ごすのは、同校に通う40人。このうち、震災後に生まれた1~4年生が39人を占める。
 震災の影響による転居など生活環境の変化で必要性が高まったことを受け、平成24年に設立。現施設は日本赤十字社に支援を要請し、翌年に完成した。
 グラウンドは、国道45号からのり面をはさんだ高い位置にあるが、11年前は大津波が押し寄せた。がれきにおおわれ、校舎1階は約2㍍の高さまで浸水。今も海抜からの高さは変わらず、津波注意報・警報時は、避難を余儀なくされる。
 月1回程度、クラブ独自の訓練を実施。大雨や不審者対応など想定を変えるが、地震・津波対応は年間で必ず複数回行うよう計画を組んでいる。
 落ち着いて外に出て、坂道を上る。避難所は大船渡中学校だが、まずは浸水を免れた高さがすぐに把握できる場所を目指す。
 雪が残る2月下旬、子どもたちは、「海抜28・9㍍」と記されたポストまでの道のりを歩いて確認した。避難に集中するため、子どもたち同士では話をせず、後ろを振り向かずに歩く。
 「きょうはちょっと、話をする子どもが多かったかな。1年生も、訓練に慣れてきたせいもあるかな」。先導した主任指導員の新沼ひとみさん(42)=大船渡町=は、こう振り返った。ポストの前では足を止め、きちんと避難行動をとるよう語りかけた。
   
指導員の経験から

 

 震災を知らない子どもたちに、避難の重要性をどう伝えるか。歳月を重ねるごとに、難しさが増す。クラブでは、避難の大切さを身をもって感じた地域住民が、指導員として児童に向き合う。
 新沼さんは震災前、野々田地内のJR大船渡線沿いに暮らしていた。自宅で生後10カ月の次女と一緒にいた時、大地震が襲った。
 避難時は、加茂神社を目指すと決めていた。しかし、幼い子を抱きかかえなければならず、徒歩ではなく、車での移動を選択した。市道と国道45号が交わる加茂交差点は、信号が機能せず、多くの車が連なっていた。
 しばらく身動きがとれない時間が続いたが、車から降りた男性が誘導し、国道から西側に移動することができた。少しでも遅れて自宅を出ていたならば、津波から逃げられなかったかもしれない。命をつなぐことはできたが、車で避難する危険性も痛感した。
 あの時を思い浮かべながら「11年前、自分は怖い経験をした。同じような思いを、もう子どもたちにはさせたくない」と語る。自らの足で高台まで向かう大切さを、そばにいる児童たちに伝える。
 「過去に経験していたとしても、津波が来た時に、逃げない人がいる。津波を知らない世代にこそ、しっかり伝えないと」。
 こう話すのは、指導員の地野美智子さん(63)=同町。高台にある自宅は被災を免れたが、親族を亡くした。
 11年前の3月11日午後2時46分、赤崎町にいた地野さんは、自宅に戻る途中、大船渡町内の沿岸部にあった親戚宅に寄った。2日前の津波警報でも、逃げなかったのが気になっていた。室内にいた親族に「逃げろよ」と声をかけたが家を出ようとはせず、それが最後の会話となった。

 

成長しても習慣に    

 

 津波に対する安全性のみを考えるならば、施設は高台に構えるのが理想かもしれない。ただ、学校の敷地内にあることで、すぐに子どもたちに「おかえり」と言える利便性がある。

夜間の滞在も想定して、首にかけられる電灯も準備

 指導員は6人体制。新沼さんの他にも、11年前に自宅が被災し、災害公営住宅から通う指導員もいる。津波の恐ろしさとともに、避難をしっかりすれば、命を守ることができることを知っている。
 学童クラブの運営母体は、保護者で組織する「父母会」。高台にある大船渡中学校に避難をして、保護者と無事を確認し合うまでが、指導員の役割であると自覚している。避難時に持ち運ぶ袋には、スムーズに引き渡すための連絡表などを入れている。
 訓練や、実際に発令される注意報・警報時の経験をもとに、持ち運ぶものを見直してきた。保護者への引き渡しが夜間になることも想定し、児童たちが首にかけられるライトも確保した。
 グラウンド内の風景に大きな変化はないが、国道45号から大船渡湾側は復旧・復興整備で生まれ変わった。津波被害を食い止めるための防潮堤も完成したが、避難態勢に変わりはない。
 施設完成から、9年を迎える。このクラブで過ごし、高校を卒業した世代も出始めている。
 「確かに、ここは、安心はしていられない。でも、ここから逃げれば、大丈夫。学校でもやっていると思うけど、大人になっても逃げる習慣を意識づけていきたい」と新沼さん。クラブ内で過ごす間だけでなく、その先にも財産となる行動力の醸成を見据える。

 

考える 身近な視点
大船渡の防災士・新沼さん 説明や防寒着に一工夫

防災面で気になった場所を写真データで保存している新沼さん

 「避難の時、困難な中でも頼りになるものが、もっと増えてほしい」。大船渡市大船渡町在住の防災士・新沼真弓さん(49)は、東日本大震災からの復旧・復興事業で様変わりした街並みを見つめながら、防災への願いを強くする。
 日ごろ持ち歩いているスマートフォンに、自らが撮影した国道45号沿いの写真データがある。道路沿いに立つ、震災時の津波浸水区域を示す標識。その情報自体に、誤りはない。
 ただ、市外から訪れた地の利がないドライバーが、運転中に津波注意報・警報が発令された時、参考になるだろうか。新沼さんは「渋滞になっていたとして、そこに車を置き捨てて逃げる訳にもいかない。他の車の迷惑になる。『この道を曲がって山側にいきましょう』『ここならば、車を置いても大丈夫ですよ』とか、もう一言説明ができないものか」と提起する。
 津波浸水区間を示す標識は、町内各地にある。そばに、高台の避難所を促す情報は少ない。新沼さんは、小さな防災の気づきを大切にしながら、啓発活動を続ける。


 

国道45号の低地部に立つ津波浸水区域を示す標識=3月6日、大船渡町

 被災し、大規模な土地区画整理事業で整備された大船渡駅周辺地区の居住人口は減った。それでも、経済活動などで日中は多くの人々が車で行き交う。
 防災危機管理者や県地域防災サポーターにも認定・登録されている新沼さん。これまで、市社会福祉協議会が運営する「ぼうさいカフェ」などで、市内に移り住んできたばかりの母親たちと向き合ってきた。防災面で地域住民が理解している事実が、地元外出身の母親たちに知られていないことも少なくない。
 津波注意報や警報発令時に、大船渡町の市防災観光交流センター・おおふなぽーとが避難所になると思っていた母親。同施設は、津波襲来時に逃げ遅れた時に駆け込む一時的な待避所で、11年前に津波被害を免れた大船渡保育園が近隣の避難所となる。ただ、大船渡保育園の場所を知らない母親もいた。
 避難に対する、住民の本音にも触れた。「子育て世代は、抱っこして歩くのは大変とか。真夜中の寒い時に、車で行きたくなるのも当然だと思う」。避難時の心理にも配慮して、無理のない行動を促す重要性も挙げる。
 細やかな気配りを挙げれば、きりがない。ただ、小さな工夫を一つ教え、実践してみることで、安心感が広がる。
 例えば、寒い夜間の避難。外に出る時、ネックウオーマーが一つあるだけで、だいぶ違ってくる。寒さをしのぐことで、次の行動を考える余裕が生まれる。
 避難所に限らず、高台に自宅がある知人宅を頼ることも防衛策となる。どこならば、自分自身がスムーズに身を寄せることが可能か。一人一人が考え、行動に起こす習慣づくりを望む。


 

 11年前のあの日、新沼さんもわが子を案じて津波が押し寄せた大船渡小に向かい、そこから高台の大船渡中に逃げた。暗闇の中で過ごした避難生活も経験した。
 今、新沼さんは「あんなに大きい災害はもう来ないだろうと思う半面、大津波は35~40年周期で来ている。静かになった今から、カウントダウンが始まっているのではないか」と危惧する。
 復旧・復興事業の槌音は消え、整然となった市街地。半面、人々が抱く心理的な不安や混乱によって、被災規模が増大する危険性もある。できること、考えられることを一つずつ実践する社会づくりが、これからのカギとなる。

 

教訓を未来へ/今だから見える課題

 

 東日本大震災以降の津波警報・注意報と言えば、南太平洋のトンガ沖で起きた海底火山噴火の対応が記憶に新しい。1月16日未明、本県沿岸は津波注意報が出され、さらに約2時間40分後には津波警報に切り替わった。
 県のまとめによると、大船渡市は避難指示対象人数3932人に対して、公共施設などの避難所に身を寄せたのは377人。陸前高田市は対象が899人で、避難者数は79人だった。両市とも対象に占める避難者の割合は、10%に満たなかった。
 注意報発令を受け、自治体職員はすぐに避難所を開設した。ただし、この日は寒さが厳しく、さらに閉館時間帯だったため、施設内はどこも冷え切っていた。
 大船渡町の大船渡地区公民館では、和室の暖房が立ち上がるまで時間を要した。また、同町の大船渡中学校では体育館で暖を確保することが難しいことから、地区公民館への移動を促す対応もとられた。
 新型コロナウイルス対策として、車で同館駐車場を訪れ、そのまま車内で過ごす家族も目立った。避難先で、どう体調を維持するか。車による避難のあり方は、検討課題の一つとなっている。
 震災以降、中高層の災害公営住宅が整備され、低地部に構える施設によっては、避難対象地域となっている。これまで、比較的大きな地震が発生すると、エレベーターが停止し、再び動き出すまで長時間待たされるケースも多い。
 徒歩による移動に不安を抱える人々をはじめ、それぞれの実情に合った避難行動を日ごろから考え、さらに状況に応じて柔軟に対応する重要性が高まっている。
 例えば、場合によっては、公共施設に向かうよりも、知人宅に身を寄せる選択の方が安全を確保しやすいのではないか。震災から11年が経過し、復旧・復興後に対応した視点も見えてきた。
 新たな街並みが整備され、11年前にどこまで津波が到達したのかも、分かりにくくなっている。一方で、大船渡市の警報時における避難対象区域は、かさ上げ地であっても、基本的には過去の浸水区域に該当する。そこに立つ建物ごとに避難時の指定などはなく、居住者や利用者が自主的に把握する必要がある。
 県は本年度中に将来起こりうる最大クラスの地震津波の浸水シミュレーション結果を公表する予定。浸水想定域を確認するだけでなく、安全に避難できるルートや、落ち着いて過ごせる避難先の検証を、住民一人一人が実践する意識が重要となる。