検証・JR大船渡線  BRT本復旧の行方── 2部・レールから専用道へ①

▲ 大地震発生を受けて下船渡─大船渡間で停車した大船渡線車両。ふたたび走ることなく撤去された(平成23年4月撮影)

開業90年 節目の選択

本復旧案受け入れへの経緯

 

 大船渡線は一ノ関駅と盛駅間の105・7㌔で、気仙と県内陸部、宮城県沿岸北部を結ぶローカル線。大正9年に着工し、同14年に一ノ関―摺沢間が開業。気仙沼までは昭和4年、終点の盛までは同10年に開通を果たした。

 区間の9割が勾配という環境に加え、陸前矢作駅新設直後の昭和8年3月には三陸津波で敷設工事中のレールが流失する被害を受けるなど、苦節を経ての全線開通だった。昨年秋、大船渡市立博物館で開かれた同線テーマ展では、「さかり町で熱狂の大祝宴」などと見出しを打ち地元の歓迎ぶりを大きく伝える当時の新聞紙面も紹介されている。

 以後、文化、産業、観光開発など多方面で沿線の振興に大きく貢献。地域の足としても多くの人が利用し、旅客輸送がピークだった昭和52年、陸前高田駅では一日の乗車人員が1300人を超えるなどした。

 

 

 しかし、道路網の整備や家庭への自動車の普及が進むにつれ、利用者は減っていった。利用の柱は通学の高校生となり、日中は全区間1両で足りる乗客数に。

 首都圏から里帰りした子の荷物が多いことから、親が一緒に大船渡線で一ノ関まで行く。その親が家に戻る前、子から「いま東京駅に着いた」と電話連絡が入る。そんなエピソードも生まれるほど、高速交通体系がそろっている県内陸部へのアクセスは良くない。気仙が誇る高田松原、広田半島、碁石海岸、五葉山といった名勝地は駅から離れ、観光客は自動車で移動した方が快適ともいえる。

 1日1㌔あたりの利用人数を表す「平均通過人員」は、気仙沼―盛を見ると、民営化直後の昭和63年度で1349人。震災前の平成22年度は、そのおよそ3分の1となる426人と大きな落ち込みを見せている。

 国鉄時代は線区別の営業収支が公開されていた。当紙の報道を振り返ると、民営化直前の昭和61年度は10億円余の年間収入に対し、経費は50億4000万円余り。100円を稼ぐために500円を投じるという状況にあった。その後、この数字がさらに膨らんでいったことは、想像に難くない。

 乗客が減るのに伴って運行本数も減っていくというマイナスの循環。民営化後には駅の無人化といった取り組みが講じられるも焼け石に水で、大船渡線は全国でも指折りの赤字ローカル線として挙げられるようになっていった。

 

 

 全線開通から76年目の平成23年3月11日、東日本大震災津波で気仙沼─盛間は甚大な被害を受けた。JRは振替バスを運行しながら翌24年7月、沿線市と同社による「JR大船渡線公共交通確保会議」の初会合で、BRTによる仮復旧を提案。

 「いったん線路をはがしたら元には戻せない」「鉄道をなくそうとしているという疑心暗鬼を捨て、復興の協力者として連携すべき」──。

 大船渡、陸前高田両市でも議論が繰り広げられた結果、同年10月、気仙沼市とともに「鉄路での本復旧」を前提として合意。25年3月、レールを撤去した専用道と一般道を織り交ぜながら、BRTが走り出した。

 そして、くしくも開業から90年、全線開通から80年の節目となった昨年、JRは本復旧の手段として鉄路ではなく専用道というボールを投げかけ、沿線市はこれを受け入れるに至った。