前略 もう戻らない貴方へ─

 東日本大震災で近しい存在を亡くした方から、亡くなったご本人へあてた手紙を、本紙がお預かりした。送り先の住所を書くことができない、天国への手紙。ここにしたためられた思いが、もう戻らない人の元へ届くことを祈って──(9面に関連記事)

 

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遺影に使った写真は、家の玄関前で撮ったもの。同じ玄関の前で、母の車のナンバープレートを見つめる祐貴さん

「頼れる自衛官になるよ」

 

 お母さんがいなくなったという実感がないまま、あれからもうすぐ5年がたつ。

 今でも「ただいま」って言いながら玄関の扉を開けて、お母さんが帰ってくるような気がするんだけどね。

 震災のすぐあと、生出のお父さんの実家で寝ていたら、夢に出てきてくれたことがあったね。あのときお母さんは「オーストラリアにいるよ」って言ってたけど、あれはどういうことだったの?もう少し詳しく説明してくれたらいいのに。現実にはもう会えないかもしれないけど、夢でも構わないからまた話せたらいいなと思うことがあるよ。

 僕は長年の夢がかなって、陸上自衛隊へ入隊することが決まったよ。お母さんは僕の夢を応援してくれてたけど、自衛隊へ行ったら危ない目にあったりケガをしたりするんじゃないかとか、不安も大きかったと思う。

 でも、震災直後に自衛隊の方々が来て助けてくれたのと同じように、どこかでまた災害が起きても、被災者のため活動できるような頼れる自衛官になりたいと思ってる。

 これからもお父さんと協力して、日々頑張っていくよ。僕が家を出たらお父さん1人になってしまうけど、時間がある時はできるだけ帰省するから心配しないで。天国からちゃんと見ていてね。

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 住田高校を卒業したばかりの佐藤祐貴さん(18)=陸前高田市竹駒町=が東日本大震災に遭ったのは高田一中1年生の時だ。

 不安な一晩を学校で過ごし、翌日に父の操さん(62)が迎えに来てくれたものの、市役所の嘱託職員として働いていた母・キエ子さん(当時55)の姿はそこになかった。

 明くる日からは、操さんと遺体安置所を巡る日々。「あのころは時間がとても長く感じられた」と述懐する祐貴さん。最初は安置所で母が見あたらないことに安堵していたが、やがてそれは「もう会えないんだな」という絶望へ変わっていった。

 手元に残されたのは、キエ子さんが同僚に預けていたバッグと、後から発見された車のナンバープレートだけ。葬儀は発災の年の9月、遺体がないまま行われた。

 葬儀の数カ月前、まだ春先のこと。矢作町の祖父宅で寝ていたら部屋にキエ子さんが入ってきた。夢の中の出来事だ。「オーストラリアに南のほうにいるから迎えにきてね」。キエ子さんは確かにそう言った。祐貴さんは一筋の望みを託し、豪州への派遣研修を行っている住田高校へと進学した。

 残念ながら、実際に同国を訪れた時に何かを感じることはできなかった。ガイドに尋ねても、日本から何かが漂着したという話は聞かないと言われた。ただの夢なのか、意味のあることだったのか、今も半信半疑だ。

 友達に「祐貴のお母さんが夢に出てきた。『祐貴のことずっと見てるからね』って言ってたよ」と教えられたこともある。次第にそういったことはなくなっていったが、「無事に天国へ行けたということなんじゃないかな」ととらえている。

 同時にそれは、母がこの世にもういないと認めることにもなる。見守ってくれているという安心感と、埋められない喪失感と──祐貴さんはこの5年、二つの相反する感情の間で揺れてきた。

 だがこの春、小学生の時から漠然と憧れていた「自衛官になる」という夢へ向け第一歩を踏み出す。その夢を決定的にしたのも、震災だった。災害派遣の隊員たちを見て、あんなふうになりたいと思った。「たくましくなるよ。人助けできるような人間になるために」。祐貴さんは母の写真にそう誓う。

 

 

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熊谷家の仏間は壁も床も幸子さんが書いた手紙で埋まる

「早く返事をちょうだいね」

 

貴方へ おはよう~。

 何食べてる?(食でつる私

 今日は建国記念日、祝日です。そして月命日です。貴方が津波にさらわれ不明のまま、5年が過ぎようとしています。どこにいるんですか。夢には出てきてるのに~。

 貴方が私の元に帰ってこないうちは節目も命日もないものと思っています。いつまでも供養しなくてごめんなさい。

 今朝早くから岩手県警の人たち大勢でこの寒さの中、上空から海上から地上から集中捜索してくれてます。一人でも一つでも家族の元へ返したいと頑張って探してくれています。継続していつまでも探してくれるそうです。月命日に限らず捜査してくださいとお願いしました。

 この大震災がなかったら無縁の人たち、お目にかかる事のない人たち、会うことも不可能だった人たちに励まされ、支えられ生きてきました。感謝です。

 この恩返しに、命ある限りしっかり前を向いて、貴方が現れるまで生きようと試練を与えてくれた自然への復讐は、人間それぞれ負けないで生きてるよと証しを見せること(地球上にはこれから先も災害はあることと思うけど)。

 どこに流されていったものやら知るよしもないのに、ましてこの広さ 家族のつらい悲しみを心にとめて黙々と捜査。頭がさがります。

 でもどこかに何かあるはず。残っているはず。見つけられず見つからず、それを思うと残念で悔しいです。

 もう何もかも判らない状態だと思いつつ、貴方の物ちょっとでも良いからと期待して、希望を捨てないで皆で待ってるから捜索隊が行ったら「ここだよ、ここにいるよ」と合図して遠慮しないで助けてもらってください。

 一日も早く出てきてくれること、みつかるよう祈ってます。

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 「おはよう~今朝も寒いです」「磨さんただいま!」。仏間の畳の上、幾重にも積まれた〝呼びかけ〟と〝報告〟の手紙。陸前高田市広田町の熊谷幸子さん(74)の夫・磨さんは震災で行方不明となり、今も見つかっていない。幸子さんは磨さんに話したいことがあると、カレンダーの裏に言葉を書き付ける習慣がついた。その数はこの5年でゆうに100枚を超えた。

 今年の正月、東京から長男家族が遊びに来た。磨さんを「みがくじいじい」、幸子さんを「さっちゃん」と呼ぶ孫の凌君(小2)が、祖母をまね手紙を書いた。「磨さんと遊んだのは2歳半くらいまでだったんだけれど、よく覚えてるものだなあって」と手紙を読んで感心する幸子さん。

 凌君は昨年夏に遊びに来た時も、自宅へ登る坂道の途中で「あそこにじいじいがいる」と下を指さしたという。幸子さん自身、「近くで見守ってくれているのかな」と感じることがよくある。以前、磨さんが転んでケガをした場所で幸子さんが足を滑らせた時も、「転ぶなよっ!」と声を聞いた気がした。

 そばにいてくれるのは分かっている。だから、「早く出てきて。返事をよこして」。幸子さんがぽつりともらした言葉が、何よりの本音だ。

 「ままちゃん頑張れっ ふんばれっ くじけるなよ! 俺も見つけられる迄 頑張っから。元気出せ」

 今年2月、磨さんからの〝エール〟を文字にした。

 「OK」。幸子さんはそこに、自分の返事を大きく書き込んだ。

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 凌君が書いた手紙。みんなで宴会したり、じいじいと戦いごっこしている絵が描かれている。楽しい思い出を凌君はよく覚えているようだ

 

 

陸前高田市横田町・荻原史乃さん(27)から父へ

 

 お父さんに手紙を書くのは初めてかもしれませんね。震災前は大学生で離れて暮らしていたから、お父さんがいない実感がわかず、違和感があります。今もどこか遠くで、見守ってくれているのかなと思っています。

 震災当時は、「もっと話せば良かった、仕事についても聞いておけばよかった、育ててくれたことを感謝すれば良かった」と挙げればきりがないくらい後悔しました。あの日に戻りたいと何度も思い、あの日さえ来なければと思うことも度々ありました。

 でも、あれからお父さんを知る人たちと出会い、お父さんの話をたくさん聞いて、とても誇らしく感じました。仕事の話はあまりしなかったから、家でのお父さんの様子しか分かりません。ほかの人から聞いて改めて「すごい人」だったんだと誇りに思います。

 いま思い出すことは、家族第一のお父さんの姿です。私の目標は、幸せな家庭を築くこと。一緒に話をし、笑い、時にけんかもするそんな普通の生活が幸せだということを、お父さんに教えてもらいました。どうもありがとう。

 結婚し、去年の7月には子どもが生まれました。目がパッチリのかわいい女の子。名前は唯一の「唯」、おめでたい意味を込めた「瑞」で唯瑞(ゆず)と決めました。名前を考える事は大変でした。私が生まれた時も同じようだったのかなあ。

 娘も日増しに大きくなり、目が離せない忙しい生活を送っています。お父さんの初孫です。アウトドア派で、鳥や虫の観察、海釣り、山のドライブ等、多趣味なお父さんなだけに、孫子守りでは連れ回したことでしょう。

 それから、お父さんが毎年楽しみにしていた恒例行事の家族写真撮影。私もやることにしました。新しい家族も同じように、日々の思い出と成長をつづっていく喜びの記念写真。子から子へとつながっていくことでしょう。

 昔撮った写真をお母さんと見ながら、「お父さんと唯瑞が似てる」と盛り上がっています。一緒に子守りしたかったね。

 今までもこれからも、私は自問自答しながら、悩み進んでいくと思います。

 お父さん、いま私はすごく幸せです。ドタドタ、バタバタして落ち着きがない生活。ハラハラして見ていると思うけど、佐藤家伝統のいつものことだと思って見守っていてください。お父さんをお手本に、家族第一で仲良く笑顔の、会話が多い家族を目指します。

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 かつて陸前高田市立博物館に勤めていた史乃さんの父・佐藤正彦さん(当時55)。家族思いの正彦さんが言い出しっぺとなり、写真館で毎年「家族写真」を撮るのが恒例だった。自らに家族ができた今、史乃さんはその習慣を引き継いだ。

 

 

大船渡市猪川町・金野ナツ子さん(87)からめいへ

 

今野まるこ様

 平成23年4月29日、桜満開の並木に囲まれたまるちゃんの自宅であなたを天国へお送りした帰り道、満開の桜の花々の間から、まるちゃんのにこやかな顔が浮かんでは消え、消えては浮かんだ私でした。まるちゃんらしい旅立ちの日であることを感じましたよ。

 「まるちゃん有り難う 頑張ったでしょう」。この言葉を伝えたくてペンをとりました。

 大津波後、電気が復活し、テレビで初めて震災の大きさを知りました。そのテレビから流れる津波犠牲者名のトップに、まるちゃん親子3人の氏名。耳にした私たちは、何回も何回も報道される氏名を確認したのです。

 私たちも海のそばに住んでいたので、隣町の高台にある息子の家へ、波に追いかけられることを知りながら車で走り続け、難を逃れました。そのために大津波当日の実態は分からなかったのです。

 優しいまるちゃん達は、弟と嫁いだ姉妹3人で、90歳を超える寝たきりの母親を仲良く交代でお世話していたことを知っていました。あなたの嫁ぎ先は我が家より海岸から距離があるので、どうしてという思いもありましたが、実家の母親を助けようとしての災難と知り胸が痛みました。

 心優しくいつもにこにこ話しかけてくれたまるちゃん。「頑張ったでしょう。有り難う。安らかにお眠りください」。今年米寿を迎える伯母の私からの届けたい思いです。

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 ナツ子さんのめいのまる子さん(当時60代)はあの日、立根町の自宅から大船渡町の実家へ実母の世話をしに行っていたという。「みんなに好かれるとっても優しい子。あの日の昼までは津波なんか絶対来ない場所にいたのに、どうしてあの子がと、心に大きな穴が開いてしまった」とナツ子さん。自身も昭和8年に広田町の実家が、35年と今回は赤崎町の自宅が津波で全壊。「命ある今に感謝しなくては」と語る。

 

 

三陸町吉浜・岩城德子さん(62)から母へ

 

 「リリリーン」 電話の音に今日もハッとする。

 〝母ちゃんかも!!〟急いで電話に出る。「もしもし」。ちがった。何度となくガッカリさせられた。

 震災前は毎日のように「もしもし、おはよう」って元気な声が聞こえてきたのに今でも母ちゃんが死んだとは認められない。いや、認めたくない自分がいる。

 父さんが亡くなって3年ののち、まさか母ちゃんまで亡くなるとは。もっともっと長生きしてほしかったなあ。旅行や温泉めぐり美味しいものの食べ歩きいっぱいいっぱい話したかったね、母ちゃん!! 月並みな親孝行だけど、それさえも叶えられなかったね。

 母ちゃん、兄弟いっぱい残してくれてありがとうね。いつも妹たちと電話で母ちゃんのこと話しているよ。「むこうで父さんと会えただろうか?仲良くしてるだろうか?」っていろんな話ししているうちに涙が頬を伝う泣いているのを悟られないように電話を切ることたびたび。

 母ちゃん、みんな元気でいるよ。一番心配ばかりかけた私だけど安心してね。今一番幸福です。

 孫たちも大きくなりましたよ。高校1年と中学2年になり、2人とも野球の練習頑張ってます。それから妹もおばあちゃんになりました。今年2人目の孫が生まれるようですよ。

 どうかみんなの幸福を見守っててくださいね。

 お彼岸には父さんと母ちゃんの大好きだったお酒と、ドリンクもって会いに行くからね。

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 子どもたちへ毎日のように電話をよこしていたという德子さんの母親(当時86)=末崎町。女4人男2人のきょうだいの長女である德子さんは、大人になってから母の実家でもある新潟へ2回一緒に行ったことがある。「元気なうちにもう1回連れて行きたかったな」。父親は焼酎派だったが、母親はなぜかオロナミンCが好きだった。墓参りには必ずそれを供える。

 

 

陸前高田市米崎町・金野さんから娘へ

 

 黒い海が煙を巻き上げながら防潮堤を乗り越え、濁流となって押し寄せてきた。

 その時、娘は高田クリニックの事務所で何をしていたんだろう。なぜすぐ逃げないでメールをしていたんだろう。そのまま濁流に巻きこまれたのか?車と一緒に流されたのか?

 いまでも分かりません。幸い、2週間目にはがれきの中で発見されました。

 発災からまもなく5年を迎えます。

 地震がくるたび、娘のことを思い出す日々。津波がなかったら、また、時間が少しでもずれていたらと、あれこれ頭に浮かんでくる。5年も毎朝仏壇に手を合わせ、「今日も頑張って行ってくる。見守ってネ」と後にする。

 ある時、黒沢さんという方に「面影画」を描いていただきました。

 〝お父さん、お母さん、今までありがとう 楽しかったよ。

  親孝行できないで ごめんなさい ずっと見てるから。

  お兄ちゃん マッシ君と仲良くね。お父さんとお母さん 宜しくお願いします。

  淳ちゃんと一緒になれなかったけど、最良に幸福でした〟

 友達がいっぱいでいつも笑いの絶えない娘だと、皆さんが言ってくれる。同級生、専門学校の友達も5年たった今でも連絡してくださってます。

 (みんなを空から見守ってくださいネ)

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 高田町の医院で医療事務をしていた長女・照代さん(当時25)。地震直後に母である金野さんの元へは、自分の無事を知らせ、母の安否を気遣うメールが届いていた。恋人との結婚も間近だった照代さん。「面影画」は、イラストレーターの黒沢和義さんが来市した時、描いてもらったものだ。両親と2人の兄、恋人へ向けられた言葉を読むたび「あの子ならこんなふうに言ってくれただろうな」と考えるという。

 

 

住田町世田米・佐々木清子さん(72)から姉へ

 

久子姉さんと八穂子さんへ 

 姉さん、あれから5年、今ごろどうしているのか心配です。二人で、いやそちらに行った角裏の人たちや、長砂の和男さんたちと、いろいろな話をして楽しんでいると私は思っています。

 あの住んでいた私たちの家は今、盛り土で高く積み上げられ、新しい道となりました。実家のある場所を探すには、浄土寺の前に立っている緑の柱を目印にしております。あの目印を見るたびに何か胸に込み上げてくるものがあります。

 八穂子さん、シクラメンの花、貴方のようにはうまく育てられないけど、美しく花を咲かせることができました。もっともっと大事に育てていこうと思っています。私たちも年を取りましたが、新しくできた道の行く末と、毎年シクラメンの花を作りながら、貴方たちをしのび、私たちは元気に生きていくことを約束いたします。

 合掌

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 久子さんは20歳離れた清子さんの実姉で、当時80代後半。娘の八穂子さんと母娘2人、高田町に暮らしていた。「八穂子さんはシクラメンを育てるのが本当に上手でね」と振り返る清子さん。震災の前年、あまり歩きたがらなかった久子さんが珍しく希望し、一緒に温泉へ行った。「背中を流しっこしたりとっても楽しかった」。遺影にはその旅行の写真を使ったという。「姉も何か予感してたのかな」と清子さんは寂しそうに笑う。