〝物言わぬ語り部〟残す、米沢ビル、自費で震災遺構に/陸前高田(別写真あり)

▲ 被災した自社ビルでガイドをする米沢さん。見学者はおよそ14㍍の高さにまで押し寄せた津波を、〝現場〟で想像することができる=高田町

 陸前高田市高田町で津波の直撃を受けながらも残った米沢商会ビル(鉄筋3階建て)が、震災遺構として残されることが確実となった。公費による保存ではなく、持ち主である米沢祐一さん(51)が修繕費用などを負担し、管理する。被災建造物の解体、かさ上げ工事によって町が様変わりした中、津波の被害と恐ろしさを伝える貴重な建物は、昔の中心市街地の面影を思い起こす上でも重要な〝語り部〟となる。


 東日本大震災の大津波発生時、地上約14㍍の高さにある同ビルの屋上で難を逃れた米沢さん。しかし一緒に働いていた両親と実弟は、避難先で津波にのまれ帰らぬ人となった。米沢さんは自らの苦い経験を教訓に変えて継承していくため、被災したビルをそのまま残してきた。
 一方、発災の翌年から浸水域の建物が次々と解体されていき、一時はビルの処遇に悩んだ。後になって壊すとなれば、数百万円単位の自己負担となる。妻に相談すると「祐一さんはどうしたいの」と尋ねられた。両親と弟との思い出がつまった建物。何より、震災1カ月前に生まれたばかりの娘・多恵ちゃんに、町や家族との記憶、震災経験を伝えたいという思いが強かった。
 「残したいけれど…」。迷う祐一さんの言葉に、妻は「解体費用は2人で働けばなんとかなる。でも一度壊せば、もう二度と同じものは建てられないんだよ」と言ってくれた。その一言が米沢さんの背中を押した。
 窓は津波で抜け、壁や天井もあちこち破損しているが、ビルの安全性に問題はないと判定された。かさ上げ対象地から外れたこともあり、市には残す意志を伝えてきた。区画整理のための「換地」についても、現在地で行われることが4月に内定したという。
 雨風をしのぐための工夫やフェンスの設置など、維持管理にかかる費用は自費となるが、周囲がことごとく土の下に埋められていく同町において、「かつての町の地面の高さ」がそのまま残る同ビル一帯は貴重な〝証言者〟。地元住民の「米沢さんのビルがあるおかげで、どこに何があったか思い出せる」といった言葉も、「保存」への意向を固めさせた。
 企業や大学の研修などで、定期的に見学依頼がある。現在は区画整理工事のため立ち入りはできず、事前に市へ申請したうえ、工事関係者の引率の元でビル内部に入り、ガイドを行う。
 発災時の生々しい体験談と、命を守るための教訓。約1時間半にわたる米沢さんの話に、誰もが真剣に耳を傾ける。東京に本社を置く企業の男性社員(36)は16日に同ビルで説明を受け、「どこかの会議室で話を聞いても、ピンとこなかったと思う。この建物があることで、米沢さんが屋上へ逃げたときの状況を『追体験』したし、以前の町も想像することができた」と語った。
 土盛りされた町を屋上で示しながら、米沢さんは見学者に呼びかける。「3年後には建物も建ち、今とは一変して素晴らしいまちになっている。ぜひまた来ていただき、『あの時は何もなかったのに、立派になったね』と、この先まで見届けていただけたら」。 
 「見学をきっかけに、2回、3回と訪ねてほしい。時間が許す限り希望者にはご案内したい」と米沢さん。ただし日曜・祝日は、工事関係者が休みのためガイドは断っている。同時に、5歳になった多恵ちゃんとの時間を大事にするためでもある。「震災前の陸前高田を知らない娘たちの世代に、この町のことを教えてあげたいというのが最初にあった思いですからね」。米沢さんは目を細めた。