鹿踊り、あす〝里帰り〟閑董院で奉納演舞へ/陸前高田
平成28年8月13日付 7面
住田町世田米の町指定無形文化財・行山流山口派「柿内沢鹿踊り」。およそ230年にわたって脈々と受け継がれてきたこの郷土芸能のルーツは、おとなり陸前高田市矢作町馬越地区にあった。どのように伝えられたのか、どんな舞だったのか、今では馬越内でも知る人がいなくなった踊りを同地区の人に見てもらおうと、同鹿踊り保存会は14日、同町への〝里帰り〟を計画。馬越の古刹・閑董院(かんとういん)で演舞を披露する。
矢作町馬越から世田米に伝わる
行山(仰山・迎山)流は本県南部から宮城県北部の伊達藩領に広く分布する流派。このうち柿内沢鹿踊りは、現一関市大東町大原に系譜をさかのぼる「山口系」に分類され、保存会メンバーも「矢作町馬越を通じ伝播したもの」と聞かされてきた。だが由来書などが残っておらず、詳しい伝承過程は分かっていなかったという。
第十二代中立(中心となる踊り手)の吉田信孝さん(56)は、個人的に馬越を訪ねその由来を調査。同地区に行山流の象徴と言える九曜紋(伊達公より拝領の証)を刻んだ鹿踊り供養碑が現存することや、かつて中立を務めた家の子孫の話が、柿内沢の伝承と合致することが分かった。
また、馬越公民館には踊りに使う鹿頭が残り、地区の入り口には「気仙鹿踊り発祥の地」という古い案内看板も設置されている。同地区に住む菊池富雄さん(84)は「気仙の鹿踊りの〝総元締め〟のような人がいたらしいとは聞いたことがあり、明治、大正期までは残っていたのかもしれないが、私たちが小さいころにはすでに誰も見たことがなかった。今も11戸しかないような地域だから、踊り手がおらず途絶えたのだろう」と語る。
住田町史を見ると、寛政年間(1789~1801)の初めごろ、栗原家の加三という人が「矢作町馬越の〝鹿踊り連〟から伝授され、これを柿内沢の人々に伝えたのが始まり」とある。だが平成4年発行の陸前高田市史の民俗芸能の項には〝馬越鹿踊り〟の表記はすでになく、矢作にあるのは生出鹿踊りの1団体のみとされる。
一方、大船渡市立博物館が編さんした『気仙の民俗芸能』では、柿内沢が馬越から踊りを伝授されたという点に触れ、「矢作町に生出鹿踊りに先行した踊り組があったことを示唆している」とも記す。気仙の芸能の「黎明期」を飾る踊り手たちが、馬越に存在したことは確かなのだ。
柿内沢鹿踊りの〝祖〟であり〝ふるさと〟と言える地ですでに絶え、そもそも存在すら「知らない」という人が大半となった踊り。吉田さんたちは伝承に携わった先祖への感謝を込め、「舞を地元の方に見ていただきたい」と申し出。同地区がこれを快諾し、市指定有形文化財である閑董院宥健尊師堂(ゆうけんそんしどう)で14日午前11時ごろから奉納演舞が行われることになった。
メンバーは連日、本番に備えて練習に励む。保存会自体も継承者が減っており、現在は移住してきた人をはじめ地区外の住民も踊り手として参加。伝承を途絶えさせまいと努力している。
吉田さんは「馬越の方に足を運んでいただき、『昔はこういう踊りがあったんだよ』ということを知ってもらいたい」と話していた。