「農業開拓の祖」縁で災害応援協定締結へ、住田町と北海道斜里町
平成29年3月8日付 7面
住田町は7日、北海道東部に位置し、オホーツク海に面する斜里(しゃり)町と災害応援協定締結に向けて調整を進めていることを明らかにした。同町はユネスコの世界自然遺産に登録された知床半島などで知られるが、基幹産業の一つである農業では、明治期に耕作を始めた知床農業開拓の祖とされる鈴木養太が住田町上有住出身という縁がある。住田町は今年夏の締結を見据え、防災充実はもちろん友好拡大にも期待を込める。
上有住出身の鈴木養太
斜里町はオホーツク管内の最東部で、知床半島を羅臼町と二分する。農業、漁業、観光業が基幹産業で、小麦や甜菜(てんさい)、馬鈴薯を主体とした畑作農業によって穀倉地帯の一つを形成。町ホームページによると、2月末現在の人口は住田町のほぼ2倍にあたる1万1840人となっている。
ホームページの「町のあゆみ」では、「開拓時代」に鈴木養太が登場。「明治10年に斜里村役場が設置され、斜里町農業開拓の先駆者と言われている鈴木養太が入地した斜里村赤上1番地で初めてこの地に開拓の鍬を打ち下ろした。長い間漁業だけの利益に頼っていた幕藩時代から、新しい時代が徐々に息づいていた」とある。
また、本紙平成5年1月1日付では、斜里町郷土研究会員・栗沢喜重郎氏が昭和43年発行の同研究会「郷土研究第八号」に寄稿した原稿の要約を掲載。栗沢氏は「斜里町開基90年、そして北海道開拓100年を顧みる時、鈴木養太が北辺の地、斜里の農業開拓に貢献した遺業を、我々町民は深く銘記するとともに、この業績を後世に伝える義務と責任を感じる」と残した。
鈴木養太は旧姓・小山で、伊達藩の藩士・小山銀蔵の次男として生まれ、25歳まで何不自由ない家門に育った。札幌開府時に大工を連れて建設事業に参加し、明治7年に斜里に入り、同10年に妻・鈴木カヨを迎え、姓も変えたとされる。
当時、内陸部は大密林と湿原が広がっていた。その中で適地を見つけ、まず穀類を初めてつくり、斜里農業の第一歩を残したとされる。苦難を乗り越え、移住者の増加とともに教育需要が高まると、自宅を学校として提供。地域の発展にも身を惜しまず尽力した人物として知られる。大正15年5月13日に亡くなった。
協定締結に向けた動きは、7日に開かれた町議会3月定例会予算審査特別委員会での質疑の中で、多田欣一町長が明らかにした。先月、町長が斜里町を訪問。同町側も遺業を受け継ぐという観点も含めて前向きな姿勢を示しており、6、7月ごろの締結に向けて準備を進めている。
住田町での災害応援協定は、実現すれば愛知県幸田町、山梨県丹波山村に続く締結。多田町長は「最初はゆるやかなつながりから、少しずつ姉妹都市のように友好が広がれば」と期待を込める。