屯所跡に名板を設置、陸前高田市消防団高田分団第一部 (別写真あり)
平成29年3月11日付 6面

陸前高田市消防団高田分団の第一部屯所跡にある、木製の小さなほこら。東日本大震災発生時、避難誘導にあたり亡くなった同部の団員11人を追悼するため建てられたものだ。発災から丸6年を前に、傍らへ慰霊碑名板が設置された。市民を救う義務を果たそうとした部員の名を伝えると同時に、「もう二度と誰も死なせない」と誓いを込める碑。まもなく区画整理事業のかさ上げ工事が始まり、この場所も土の下へと消えるが、ほこらなどは一時的に撤去され、屯所が再建されたのち移設される。
亡き団員の名、残す
高田町字下和野で営業する「小谷園茶舗」(小谷隆一社長)仮設店舗の脇。震災前は第一部屯所があった場所に、小谷社長(68)が建てたほこらがある。消防団OBの小谷社長は、津波の犠牲となった第一部団員の名前をプレートに書いてほこらに納め、線香をあげ続けてきた。そばにいつも花が絶えないのは、月命日の11日などに合わせて供える人たちがいるからだ。
同部は、同町荒町の一部と、川原、松原地区で構成。平成23年3月11日に大津波警報が発表された際は、ほかの団と同様、第一部団員たちももれなく出動した。いち早く集合場所へ駆けつけたメンバーは、海岸方面への交通規制を張り、避難の呼びかけ、誘導にあたった。だがその最中に大波が押し寄せ、町も住民ものみ込んだ。
大震災で犠牲となった全国の消防団員は、254人にのぼる。このうち陸前高田市では被災市町村最多の51人が死亡。同部では20人中11人もの団員が亡くなった。震災前は、部の中でフットサルや釣りのクラブをつくったり、一緒にマラソン大会へ参加したりと、「まとまりがある部だった」と振り返る団員たち。今も夜警などへ出動する際、「行ってくるよ」とほこらへ立ち寄ることもある。
一方で同部班長の佐々木正也さん(42)は、ここへ立つと、どうしても「自分は生き残ってしまった」という罪悪感を感じてしまうのだという。
同じく班長を務める白江威晴さん(44)も、「あんまり来られていないほうだと思う」と言葉少なに語る。亡くなった団員と同じように、自身も避難誘導に出ていた。ほんのわずかな差が生死を分けたことで、「なんでおめえばり残っだのや」と無言の非難を身に受けているような苦しさを覚える。
あの日、被災を免れた別の部の屯所で、なかなか戻ってこない団員たちの帰りを待っていた、当時の第一部部長・村上達也さん(54)=高田分団長=はそれに対し、「俺は一人でも帰ってきてくれてよかったと思っている」と強く反駁(はんばく)する。
震災前は749人いた団員も、100人近く減少した。「家族に『心配だから消防団をやめてくれ』と言われてない団員はいないんじゃないかな」と村上さんは言う。だが発災後に同市へUターンした同部の小澤巧さん(30)は、同級生たちが団員として懸命に立ち働く姿を見て、自ら「入団させてください」と申し出た。
「『いいの?本当に?』という感じだった」と白江さん。しかし現在は、消防団にも「津波到達予想時刻の10分前までに退避を完了する」というルールがつくられた。誰かを守ろうとして死ぬ団員がいないよう、住民一人ひとりの避難意識高揚も大事だ。二度と同じ悲劇は繰り返させない。
今回、「七回忌」を前に名板を設置したのは、本紙を読みこのほこらの存在を知った福岡県筑紫野市の読者・柴﨑一郎さんが、「この場所へお花を供える費用にしてください」として、同部に3万円を寄付したことから。「せっかくいただいたお金、何か残るものにしよう」と団員たちで話し合い、決めたという。
「目に見える形で残すことができて、通りがかる人も拝みやすくなると思う。ありがたい」と白江さん。
かさ上げ工事が始まれば、ほこらともども移設せねばならない。小谷社長は「屯所跡にこれが建っていることに意味があるんだろうけどね」と残念がるが、第一部屯所が再建されたあかつきには、再び〝手を合わせられる場所〟をつくりたいとしている。