災害時支援と友好誓う、住田町が北海道斜里町と協定

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鈴木養太(完也さん提供)

 住田町は29日、北海道東部に位置し、オホーツク海に面する斜里(しゃり)町と「災害時における相互応援に関する協定」の締結を行った。同町はユネスコの世界自然遺産に登録された知床半島などで知られ、基幹産業の農業は住田町上有住出身の鈴木養太が明治期に最初に入り、開拓の礎を築いたとされる。両町関係者は、教育振興にも尽力した偉人の縁を生かした友好と防災充実を誓い合った。

 

農業開拓の縁結実

上有住出身の鈴木養太が礎築く

 

 斜里町役場での締結式には、住田町から多田欣一町長と菊池孝町議会議長らが出席。斜里町からは馬場隆町長や木村耕一郎町議会議長が臨み、町議や町幹部職員ら約20人が見守った。
 今回の協定は、災害によって町独自では十分に被災者や被災地の支援・応急復旧が難しい場合に、相互応援を行うもの。協定書は「森林・林業のまち」である住田町産のスギ材で制作。また、同町からは杣遊会(そまゆうかい)が制作したフクロウとヤマドリをかたどったチェーンソーアートも贈られた。
 調印後、馬場町長は「いつ、どこで、どのような災害が起こるか分からない時代。互いに助け合う関係を築けたのは何よりであり、自然体のお付き合いを」とあいさつ。多田町長は「何かあった時に助けてもらえる町があるのは心強い。後世の人々に鈴木養太の歴史を伝えていきたい」と述べ、友好充実に期待を込めた。
 斜里町はオホーツク管内の最東部で、世界自然遺産に登録されている知床半島を羅臼町と二分する。町ホームページによると、5月末現在の人口は住田町のほぼ2倍にあたる1万1793人。
 基幹産業は農業と漁業、観光業。小麦や馬鈴薯などを主体とした畑作農業が行われ、耕地面積は1万㌶にも及び、日本の穀倉地帯の一つを形成している。全国有数のサケ・マス水揚げ基地としても知られ、観光客は年間約150万人が訪れる。
 農業に関しては、明治10年に斜里で最初に鍬を下ろしたのが鈴木養太で、「農業開拓の祖」とされる。うっそうとした原生林と湿地が広がる中で適地を見つけ、開墾に着手した。
 鈴木養太は旧姓・小山で、伊達藩の藩士・小山銀蔵の次男として生まれ、25歳まで何不自由ない家門に育った。札幌開府時に大工を連れて建設事業に参加し、明治7年に斜里に入り、同10年に妻・鈴木カヨを迎え、姓も変えたとされる。

朱円地区に建立されている石碑=斜里町

朱円地区に建立されている石碑=斜里町

 農業先駆者としての足跡に加え、地域内で教育需要が高まった時期には学校開設のために自宅を提供するなど、多方面で地域の発展にも尽力。大正15年に亡くなり、かつて自宅があった同町の朱円地区には「農業発祥記念碑」が建立されている。
 朱円で農業を展開し、郷土史研究にもあたる宮内知英町議(67)は「農業はもちろんだが、教育に対して非常に熱心な方だった。地域で子どもを育てていくという歴史を築いた方。地域の偉人として、誇りに思っている。功績への理解がさらに広がれば」と話す。
 締結式にも同席した鈴木養太のひ孫で、斜里町内のホテル季風クラブ知床館主・鈴木完也さん(71)は「当時の入植者にしては珍しく、先住民のアイヌの人々ともきちんと接し、感謝の心を持っていたのではないか。住田町に関しては、東日本大震災時に独自に仮設住宅を整備するなど後方支援をしっかりと行っていたことに感銘を受けていた」と語る。
 住田町による災害応援協定は、愛知県幸田町、山梨県丹波山村に続き、町村単独では3自治体目。岩手県内全市町村、宮城県域の県際市町村とも広域的に締結している。