大津波で流失した松坂翁の顕彰碑見つかる、気仙川河口の工事現場で/陸前高田
平成29年9月3日付 1面

陸前高田には江戸時代、「立神浜」と呼ばれた不毛の大地にマツを植え、現在の高田松原の礎を築いた2人の偉人がいた。そのうちの1人で、享保年間(1716~1736)に造林事業を繰り広げた旧今泉村(現気仙町今泉)の仙台藩御金山下代・松坂新右衛門翁の顕彰碑がこのほど、気仙川河口の水門工事現場で発見された。東日本大震災の大津波で流失したもので、高田松原における植栽活動が再び始まった年の発見に松坂翁の子孫も喜んでいる。
高田松原の礎築く
植樹再開の年に発見の奇縁

高田松原にあった当時の顕彰碑(陸前高田ロータリークラブ『高田松原を守ろう!』より)
顕彰碑は8月28日、気仙川左岸の河口土中から工事業者が発見。安藤ハザマ・戸田建設・豊島建設特定共同企業体による水門土木工事現場で、現在は川をせき止めた状態の中、古い水門の解体などを行っている。
安藤ハザマの管理技術者である伊藤恒治さん(43)によると、同エリアでは震災行方不明者の家族からの意向を受け、水を抜いたあとの土砂をかき出し、仮置きする作業も実施。石碑はこの作業の過程で見つけられ、工事発注者である県沿岸広域振興局大船渡土木センターに報告したという。
伊藤さんは「土砂の中にはたまに大きな石も交じっているが、石碑はそれらより一回り大きかった。『松原』の文字が見えたので、このあたりにあったものなのだろうと思った」と話す。
石碑には「松坂新右衛門定宣翁顕彰碑」「ここ旧称今泉松原は」から始まる文字列が確認でき、陸前高田市郷土史研究会・宗宮参治郎氏著の『陸前高田の碑文』で紹介されている碑文、写真とも一致する。
碑は、「奇跡の一本松」が立つ場所よりさらに気仙川寄りに安置されていたもので、平成23年の大津波で台座ごと失われた。また、1667年に初めて植林に取り組んだ高田村の豪商・菅野杢之助翁の顕彰碑や、石川啄木と高浜虚子の句碑なども高田松原から流出し、まだ見つかっていない。
『陸前高田の碑文』によると、松坂翁の顕彰碑は昭和47年2月の建立。河野下枝氏撰、佐藤氷峰氏の書とある。「当時此の地は一木も無く海風は絶えず砂じんを耕地に吹き入れ、そのため田圃は埋没荒廃し収穫皆無のこと再々に及んだ」など、松原後背地がかつて荒涼とした場所であったことを説明。松坂翁が私財を投じ、防風林であるマツ林を築いた遺徳をたたえる。
松坂家の子孫にあたる松坂定徳さん(84)=大阪府堺市在住=は発見の報を受け、「もう見つからないと思っていた」と喜びを表し、「碑は気仙町の人たちみんなが、『今泉松原の歴史を伝えねば』とお金を出し合って建ててくれたもの。除幕式に出席したことも覚えている」と懐かしむ。
津波で7万本のマツが流失した高田松原では、今年の春から本格的な植栽活動が始動。松坂翁や菅野翁がかつてそうしたように、また一からマツ林が築かれようとしている。
松坂さんは「これも何かの奇縁。建ててくれた人はみんな亡くなってしまい、有志による碑なので誰が所有者というものではないが、できればまた松原のどこかに建ててもらえれば」と願う。市は、石碑の取り扱いを検討している。