鈴木養太の縁 広がる交流、災害協定締結機に相互理解進む/住田町

▲ 鈴木養太の生家があった場所を眺める鈴木完也さん(右から2人目)=上有住

 今年6月に「災害時における相互応援に関する協定」を結んだ住田町と北海道斜里町との間で、人的交流が広がりを見せている。同町の基幹産業の一つである農業では、明治期に耕作を始めた知床農業開拓の祖とされる鈴木養太(旧姓・小山)が住田町上有住出身という縁がある。6、7日には養太のひ孫にあたる鈴木完也さん(71)が住田町を訪れ、町関係者らと友好を深めた。

 

北海道斜里町からひ孫来訪

 

 完也さんは、斜里町内に構える「ホテル季風クラブ知床」の館主を務める。住田には初めて足を運んだ。
 6日は、同ホテルでの宿泊を機に、手紙などで交流が続いているという上有住の住民宅を訪問。上有住ではさらに、多田欣一前町長の案内で、町コミュニティバスの「船作」停留所付近から、かつて養太の生家があった場所を眺めた。
 平地が広がる斜里の開拓地とは異なり、狭あいな山間部に位置する養太の実家跡地。夕暮れに染まりゆく景色をじっくりと見つめながら、さまざまな思いを巡らせていた。
 町役場も訪れ、木造建築として全国的に注目を集める構造にも理解。ホテル季風クラブも木造で、趣あるホテルとして長年観光客に愛されている。完也さんは「大きな梁をとばす技術やデザイン、素材を生かす工夫など、これは総合芸術」と声を弾ませた。
 今後に向けては「木造建築や災害時の仮設住宅建設など、住田から学ぶことがとても多いと思う。今回来て改めて思ったが、住田の方々のやさしさも、災害時の支援に大きな役割を果たしたのでは。人と人がかかわり続ける関係になっていけば」と期待を込めた。
 同日夜は、まち家世田米駅で町関係者らと会食。7日は、東日本大震災からの復興事業が進む気仙両市を訪ねた。
 斜里町はオホーツク管内の最東部で、知床半島を羅臼町と二分する。農業、漁業、観光業が基幹産業で、小麦や甜菜(てんさい)、馬鈴薯を主体とした畑作農業によって穀倉地帯の一つを形成。町ホームページによると、10月末現在の人口は住田町のほぼ2倍にあたる1万1769人となっている。
 明治10年に斜里で最初に鍬を下ろしたのが鈴木養太で、「農業開拓の祖」とされる。うっそうとした原生林と湿地が広がる中で適地を見つけ、開墾に着手した。
 養太は旧姓・小山で、伊達藩士・小山銀蔵の次男として生まれ、25歳まで何不自由ない家門に育った。札幌開府時に大工を連れて建設事業に参加し、明治7年に斜里に入り、同10年に妻・鈴木カヨを迎え、姓も変えたとされる。
 偉大な功績を後世に受け継ぎ、両町が良好な関係を築いていこうと、今年6月に協定を締結。災害時に独自で救援や復旧が困難な場合、相互に応援を行う内容となっている。
 締結後、8月には斜里町の馬場隆町長が住田町を訪問。10月には神田謙一住田町長が斜里町に出向くなど、交流が広がっている。