羽ばたく〝あの日の10代〟、社会の一員として

 東日本大震災の発災から7年。〝あの日〟10代だった若者も立派な大人になり、社会の一員としてそれぞれの道を歩み出している。当時は中学生、高校生、大学生だった6人に、地域を支える担い手として汗を流す〝今〟について語ってもらった。

 

つながり大切にする人に

山田 晴香 さん(24)=大船渡市立根町=
綾里こども園・保育士

 平成25年に保育士となり、綾里こども園に赴任しました。最初の1年は、初めて経験することが多く、毎日の仕事の流れの中で、子どもたちとどうかかわり、何を教えていくか、悩んだ時期もありましたが、先輩方がいろいろと気にかけてくれたおかげで、なんとか乗り切ることができました。
 初めて受け持った子どもたちは、自分が新任の先生なのにもかかわらず、とても慕ってくれました。その子たちが進級していくのを見て、「大事な時期にかかわることができて良かった」と実感しました。また、連絡帳に「先生が受け持ってくれて良かった」と書いてくれた親御さんがいて、とても励みになりました。
 今は、子どもたち一人一人とのかかわりを大切にすることと、同僚の先生たちと積極的に話をすることを心がけています。保育士は、先生たちと一緒に子どもを育てていく仕事。日常の保育をスムーズに行う意味でも、先生や保護者のみなさんとのコミュニケーションが欠かせないと感じています。
 東日本大震災当時は、高田高校2年生でした。震災当日は部活が休みで、末崎町の自宅で過ごしていた時に強い揺れに襲われました。
 地震の直後は何がなんだか分からなくなり、とりあえず1階で片付けをしているところで津波が来ました。2階に逃げ、ベランダから車などが流されていく光景を見ているしかありませんでした。
 震災後は避難所や仮設住宅で過ごし、小さな子どもたちと遊んだり、近所の人と集まっていろいろな話をしました。そういった人とのつながりが被災後の心の支えになり、いろいろな人とかかわり合う保育士になろうと考えるようになっていきました。
 高校を卒業したあとは、仙台市の短期大学に進学しましたが、入学前から、地元で就職しようと考えていました。
 こども園に赴任後の26年に結婚し、長女と長男を出産しました。今は6カ月になる長男の育休中ですが、まもなく職場復帰できると思います。
 園児たちや自分の子には、人とのつながりを大切にできる人に育ってほしいです。

 

縁の下から復興支える
柳下 俊一 さん(23)=陸前高田市米崎町=
岩手開発鉄道㈱・運転士

 震災があったのは高校1年生の時です。出身は陸前高田市高田町で、高田小学校、第一中学校に通いましたが、小学校時代からサッカーをやっていたので、高校でも続けたいと思い強豪の遠野高校に進学しました。
 震災が発生した日は、翌日の大会に備えて体育館で練習していたところで、突然、激しい揺れに襲われました。
 その日は停電となり、携帯電話も使えなかったので、真っ暗闇の中で一晩過ごしたのを覚えています。
 次の日、地元の友人から高台で撮影した写真が送られてきて、そこで初めて高田の状況を知りました。
 最初は、あれが自分のまちだと思えず、海の近くにあった実家も流されているはずなのですが、信じられませんでした。
 発災から3日ほどして家族が迎えにきて、両親は無事でしたが、同居していた祖父、祖母は避難した市民体育館で亡くなったと聞きました。
 父の実家がある大船渡で3年ほど過ごしたあと、自宅が米崎町の高台に再建となったので、今はそこで暮らしています。
 就職先は、被災前は漠然と仙台や盛岡かなと思っていました。震災があって、地元の復興に携わりたいと思うようになり、小さいころから岩手開発鉄道の列車を見ていたこともあって、この仕事なら地元に貢献できるかもと思って入社しました。
 学科試験と実技試験を突破して、平成27年に21歳で最年少運転士になりました。市内陸部からセメント工場のある沿岸部まで、セメントの原料になる石灰石を鉄道で一日4〜5往復輸送しています。
 運ばれた石灰石は復興工事に不可欠なセメントとなり、防波堤や防潮堤、道路、トンネルなどの建設に用いられます。雨でも風でも、雪でも、安全に、安定して運ぶのが仕事なので、これからもそれを心がけて、地元の復興を縁の下で支えられたらと思っています。
 地元の陸前高田ではかさ上げも進んで、復興してきているなと感じます。震災前よりも、もっといいまちになっていくのを見ていきたいです。

 

教わったこと今度は自分が
志田 一茂 さん(25)=大船渡市赤崎町=
高田東中学校・常勤講師

 小学3年の時に野球を始め、大船渡高校でも野球部に3年間所属しました。震災に遭ったのは高校の卒業式を終え、仙台大学への進学を控えていた時期。高校のグラウンドで野球の練習をしていた時に大きな揺れに襲われました。
 幸い家族は無事で、当時暮らしていた大船渡市大船渡町の自宅も被害は受けませんでした。しかし、まちががれきだらけの光景に変わり、現実を受け止められませんでした。
 仙台大も避難所となっていたため、入学式は1カ月遅れで行われました。家族はライフラインが寸断された状況で生活しているのに、私だけ仙台で不自由なく暮らし、野球を続けていいのか葛藤し、悩みましたが、元気に野球をプレーしている姿を見せることが、家族への恩返しになると信じて、4年間硬式野球部で練習に打ち込みました。
 4年の春にレギュラー入りし、仙台六大学野球の春季リーグ戦で仙台大として初の優勝を果たすことができました。明治神宮大会にも出場し、「全国の舞台に立つ」という夢をかなえることができました。何より明治神宮球場のグラウンドでプレーしている姿を両親に見せることができて本当に良かった。
 大会後すぐに母校の大船渡高で教育実習を受け、野球部の指導にも携わりました。実習の最終日には自分のことで精いっぱいだった私に対して、先生や生徒たちから温かい言葉をかけてもらい、「教員っていいな」と改めて思いました。
 卒業後は、常勤講師として気仙で勤務しています。昨年春に着任した陸前高田市の高田東中学校では体育科を担当し、野球部の部長兼コーチとして指導しています。野球のノウハウや技術を生徒に教えられるのは大きなやりがいです。
 家族や友人、恩師の支えのおかげで今の私があるということを、震災を経て学びました。感謝の気持ちを忘れてはならないと思っています。教員採用試験合格を目指すとともに、気仙で私が教わったことを、今度は子どもたちに伝えられるよう頑張っていきます。

 

患者第一で働きたい
阿部 祐菜 さん(21)=陸前高田市高田町=
県立高田病院・准看護師

 7年前は末崎中学校の2年生。3年生に2番目の姉がいて、その卒業式練習で体育館にいた時に震災が発生しました。1番上の姉は1人で陸前高田市高田町の家にいたので、2番目の姉、三つ下の妹、母の4人で捜し回りました。家族全員合流するのに3日ほどかかりました。
 看護師になろうと思ったきっかけは、ひいおばあちゃんが透析治療をしていたこと。自分では覚えていませんが、小学生のころから「ばあちゃんを助けたい」と言っていたそうです。
 そして震災があり、避難所に派遣されてきた看護師さんを見て、自分も人のために仕事をしてみたいと思い、今に至りました。
 母子家庭なので「できることは自分でやろう」と思い、働きながら学べる気仙沼市の准看護学校に通いました。今は高田病院で働きながら、高等看護学校に平日の夜間通っています。
 高田病院では准看護師として勤務しており、昨年4月の務め始めからもうすぐ1年。先輩方は「順調に覚えている」と言ってくれますが、自分ではまだまだと思っています。
 当初からペアで教えてもらっている先輩は、大学で学んだ看護師さん。すごく経験豊富で、さまざまな知識を持っているし、看護の技術も高い。先輩だけでなく、スタッフの皆さんに優しく接していただき、高田病院で働くことができて良かったと心から思います。
 今の目標は看護技術をもっと磨くこと。新しい高田病院では電子カルテを使用していますが、まだ慣れていないので、しっかりと対応できるよう努めているところです。
 日常生活では、体調を崩して休んでしまうことがないよう心がけています。病院では、日によって担当する患者さんが変わるので、お一人お一人のことを早く覚えようと頑張っています。
 高看の3年生は実習がメーンになるので、来年度でいったん退職し集中して学ぼうと考えています。レベルアップしてから高田病院に戻り、患者さん第一で働くことができたら。

 

大好きな地元で夢つなぐ
伊藤 貴思 さん(26)=大船渡市大船渡町=
三陸鉄道南リアス線運行部・運転士候補生

 以前の実家は大船渡市大船渡町の茶屋前、旧マイヤ本店の近くにありました。震災の発災当時、大学1年生で千葉にいて、ワンセグ放送などで被災地の現状を知りましたが、住んでいた地域に大津波が押し寄せる光景にショックを受けました。両親と連絡がとれた2日後まで、不安で眠れなかったのを覚えています。
 震災は、それまで将来を漠然と考えていた自分が、地元に戻ろうと考えた理由の一つ。千葉の鉄道会社でアルバイトをしていた縁が、地元を走る三陸鉄道への入社に結びつきました。
 自分ではあまり覚えていないのですが、家族や周囲の人たちからは、幼いころ、大の列車好きだったと聞いています。小学生以前は駅の柵に身を寄せて、車両を飽きずに眺めていたそうです。
 中高生時代はそういう過去を忘れ、進路で鉄道の運転士を選択肢に入れることもありませんでした。しかし、千葉のアルバイトでお客さんを笑顔にするこの職業にやりがいを感じ、運転士という夢を見つけ、現在に至っています。
 入社1年目は、構内の作業や車掌の仕事もありましたが、運転士になるための国家試験や社内試験に向けた勉強が主でした。車両の構造や運転法規、理論などについて、参考書だけではなく、先輩方からも教わりながら知識を吸収しています。
 試験は大きく分けて4回あり、運転士としてのデビューは早くても秋ごろ。今月1日には最初の試験を終え、夢に近づいた今、自分自身に対する期待感も高まっています。
 この1年で感じたことは、地域に根付くローカル線の良さです。お客さま一人一人への対応の細やかさや温かなコミュニティーは、都会の鉄道にない大きな魅力。震災で三鉄も大きな被害を受けましたが、「なくてはならない存在だから再出発できた」と、自信を持って思えます。
 運転士を「かっこいい」と見つめていた過去。今度は、自分がその憧れの目を向けられる番。鉄路が遠い地をつなぐように、大好きな地元の人たちの夢をつなげられるような運転士になりたいです。

 

次代を担う一人として
吉田 宇秀 さん(22)=陸前高田市米崎町出身=
陸上自衛隊・第5普通科連隊3等陸曹

 高田高校卒業後、陸上自衛隊に入隊し、今は第5普通科連隊の一員として青森駐屯地に配属されています。
 震災が発生したのは、米崎中学校の卒業式前日でした。式のリハーサルを終え、「帰りの会」をしている時に地震があり、みんなで机の下に隠れ、揺れが収まってから校庭に避難しました。
 漁港の方に目を向けると、海の水が引いて底が見え、津波が来たらまずいと思って、学校の裏にある山へと避難しました。家族は無事でしたが、海沿いの自宅は全壊でした。
 ふるさとが被災地になる以前は自衛隊という存在について深く知りませんでしたが、あの時、救援物資を届け、仮設の風呂も造るなど、災害時の活動を初めて目の当たりにしました。
 危険をかえりみずに遺体捜索を行い、思い出の品なども探してくれて、ただただすごいなと思うと同時に、自衛隊に入りたいという気持ちが芽生えたのもあの時。振り返ってみると、心の中ですでに進路は決まっていたのだと思います。
 入隊してから知ったのですが、震災時に陸前高田に来てくれたのは、今、自分が所属している第5普通科連隊でした。本当に偶然でしたが、ここへの配属が決まった時には縁を感じて、「あの時、お世話になった部隊に貢献できる」と思いました。
 災害は起きないことが一番ですが、有事の際には、あの時、自分がそうしてもらったように、誰かを助けることができたらと思います。
 日々の訓練はきついこともありますが、そんなことを言っていては、いざという時に人を救えません。自分に負けないように努めています。
 この部隊で、一人の自衛官として人の役に立てるような力を付けていきたいです。この先につらいこともあるかとは思いますが、負けることなく頑張っていきます。
 これからのまちをつくっていくのは自分たちの世代です。地元のみんなには再建を頑張ってもらい、自分はこちらで、有事の時のために訓練に励み、ともに次代を担う一人として成長していければと願っています。