75歳の島貫内科医が退職、県立高田病院に10年勤務/陸前高田

▲ 高台に再建された高田病院が開院を果たし、万感の思いの島貫さん=高田町

 今月1日、陸前高田市高田町の高台に新築され、診療を始めた県立高田病院(田畑潔院長)のベテラン内科医・島貫政昭さん(75)が31日に退職する。医師不足が続く気仙の力になるべく、同病院に勤務して10年。震災で全壊した旧病院で津波に遭ったあとも、「新病院の開院を見届けるまでは」と心に決め、医療再生に力を尽くした。「今後も患者本人に寄り添う医療を提供していってほしい」と後進に願いを託す。

 

 医療人の使命 後進に託す

 

震災後応援に駆けつけた全国の医師たちのメッセージも仕事の励みとなった=世田米

 今月22日、島貫さんは震災後2年間過ごした住田地域診療センター(住田町世田米)敷地内にある仮設住宅の集会所を久しぶりに訪れた。
 「不死鳥のように舞い上がれ」「心の医療を。優しい医療を」…。室内の壁には、びっしりと応援メッセージが記されている。被災地の医療を支えるため、代わる代わる気仙に駆けつけた全国の医師たちが書き残したものだ。
 「この先生は盛岡出身で、『故郷のために』と大阪から応援に来てくれた。この人は…」。壁のメッセージを指さしながら、当時を振り返る島貫さん。もぬけの殻となった集会所は、応援医師たちと酒を酌み交わしたり、語らい合った思い出の場。「支援に来た医師たちの存在は、大きな励みとなった」と優しく笑った。
 花巻市の石鳥谷医療センターで定年を迎えた島貫さん。自宅がある山形県山形市でのんびりしようと考えていたが、医師不足で悩む高田病院の前院長・石木幹人さん(現国保二又診療所長)に頼まれ、平成20年4月に同病院に着任した。
 7年前の「あの日」、ただならぬ揺れに遭い、窓の外から土の壁のような津波を目にした。最上階の4階で、患者を屋上へ避難させようとしていた時にベッドに脚をはさまれ、身動きが取れなくなった。津波に漬かり諦めかけたが、腰の高さで水かさが止まり、何とか避難することができた。
 屋上で患者や地域住民、職員らとともに、防寒のためにポリ袋をかぶったり、火をたいたりして寒さに耐えながら一晩過ごした。自衛隊のヘリコプターで救助されたのは翌日の夕方ごろ。この間、低体温症などで亡くなる避難者もおり、「医療機器がすべて流され、何もしてあげられなかった」と無力感に苦しんだ。
 救助の翌日、米崎町の米崎地区コミュニティセンターを間借りし、臨時の救護所を開設。高田町の病院公舎が津波で被災したため、島貫さんをはじめ住まいを失った医師や職員は、住田地域診療センター2階の病室に寝泊まりしながら、救護所に通い続けた。
 「自分は生かされた身。ここで山形に帰るわけにはいかない」。23年7月に米崎町の仮設診療所での診療が始まってからも一線を退くことは考えなかった。
 診療時は、津波で負った外来患者の心の傷を少しでも和らげられるようにと、何気ない会話にも耳を傾けた。月命日には旧病院跡地に足を運んで犠牲者に追悼の祈りをささげ、震災の教訓を伝承するため、自ら車を運転して支援チームの医師や研修医を市内に案内した。
 20日に最後の診療を終え、「やっと新しい病院が動きだした。ホッとしている」と肩の荷を下ろした。まずは山形でゆっくりとした時間を過ごすが、津波で被災した高田松原でのマツの苗木植栽のため、落ち着いたら再訪するつもりだ。
 高田病院が力を入れる訪問診療・看護について「高齢者が住み慣れた地域で幸せに暮らしていくため今後さらに必要だ」と語り、「今はチーム医療の時代。医師だけではなく、看護師、ヘルパー、ケアマネなどと一緒に、気仙、陸前高田の医療を守っていってほしい」と期待を込める。