亡き友・松原さん(当時北小6年)の遺影手に成人式へ、同級生の田中さんが出席/大船渡
平成30年12月11日付 7面

大船渡市大船渡町出身の田中彩絵美さん(20)=岩手医科大学看護学部2年=は、同市内の小中学生でただ一人、東日本大震災津波の犠牲となった大船渡北小学校の松原啓太さん(当時6年)の遺影を持って、来年1月に行われる成人式に出席する。同じ保育園、小学校に通い、啓太さんと幼なじみだった田中さんは、大震災をきっかけに志したという看護の道を歩んでおり、「患者に安心して頼ってもらえるような看護師に」と今は亡き親友に誓う。
市内小中学生唯一の震災犠牲者
母子家庭だった啓太さんは、震災前に母親が亡くなったため、末崎町に住んでいた祖父母の久池井力さん(71)、まき子さん(震災当時62)夫妻宅で、兄の祐人さん(同18)とともに4人で暮らしていた。啓太さんと毎日のように遊んでいたという田中さんは、「啓太君は、すごく明るくて面白い子。クラスのムードメーカーで、人を笑わせるのが好きだった。啓太君のまわりに人が寄ってくる感じで、本当にみんなに好かれていた」と、その人となりを振り返る。
大震災当日、田中さんや松原さんがいた6年2組の児童らは、図工の授業中に大きな揺れに襲われたという。
校庭に避難してしばらくすると、久池井さん夫妻と祐人さんが、啓太さんを車で迎えに来た。ちょうどトイレから戻ってきた田中さんに、啓太さんは「じいちゃんとばあちゃん、兄ちゃんが来たから帰る」と声をかけてきたという。田中さんが「じゃあね」と言うと、「また卒業式にね」と啓太さん。それが最後の会話だった。
震災から数日後、田中さんは「この小6の子、知ってるか?」と家族から新聞の犠牲者欄を見せられた。啓太さんだった。「保育園のころから知ってるよ…」と答えたきり、ショックで何も言えなかった。
久池井さんによると、地震発生時に立根町のスーパーにいた3人は、啓太さんを車に乗せたあと、国道45号を末崎町方向に向かった。だが、渋滞でなかなか進むことができず、大船渡小学校付近で津波に襲われた。車が進まなくなったため、外に出ようとしたところで、続けて襲来した津波にのまれた。
なんとか助けられた久池井さんは、気がついたら大船渡中学校の体育館にいたという。まき子さんと啓太さんは、車の中で遺体が見つかった。行方不明になった祐人さんは、大船渡町の海近くで発見された。
震災発生から2週間後の3月25日、大船渡北小で卒業式が行われた。田中さんは啓太さんからもらったパーカーを着て式に臨んだ。担任が涙ながらに啓太さんを呼名すると、啓太さんの叔母が卒業証書を受け取った。式のはじめには笑顔も見られた子どもたちも涙をこらえきれなかった。
「啓太君とともに成人式に」と思うようになったきっかけは、平成29年に行われた姉の成人式だった。田中さんは、愛知県に移り住んでいた久池井さんと連絡を取り「啓太君の遺影と成人式に出席したい」と伝え、久池井さんから「ぜひお願いしたい」と快諾を得た。
それから約2年がたった今年、久池井さんから啓太さんの写真が送られてきた。バレーボールを手にほほ笑む、卒業アルバムに使われていた写真だ。「ずっと会えなかった友達もいるし、成人式でみんなに会いたい」と約1カ月後に控えた晴れ舞台に、啓太さんとともに出席することを心待ちにしている。
大船渡北小卒業後、大船渡中学校、大船渡高校と進んだ田中さんは、看護師である母の姿を見て、同じ道を志した。「大震災の時、直接は母が働く姿を見なかったが、こんな大災害の時に命を救えるのは格好良いと憧れた。純粋に命にかかわる仕事をしたかった」と振り返る。
昨年春に岩手医科大に進学した。災害時の地域医療に力を入れる同大は、田中さんにとって「自分の学びたいことがたくさんあるところ」という。「啓太君が亡くなって、落ち込んでいたのに表に出せなくて、スクールカウンセラーにも行けなかった。その経験があるから、患者さんの気持ちを理解したいという気持ちは強い。患者さんに寄り添うことが当たり前にできて、『何かあったらこの人に』と頼ってもらえるような看護師になりたい」と力を込める。
大震災発生からきょうで7年9カ月。地元を離れて学業に励む今でも、啓太さんのことを思い出すという田中さんは「大震災のことも啓太君のことも忘れないでいてほしい。家族を亡くした人もたくさんいるし、震災を『昔あったこと』にしてほしくない」と願っている。