静かなる闘将 ピッチ去る、小笠原選手(鹿島アントラーズ)が現役引退

▲ 人工芝化した赤崎グラウンドのプレオープンに駆けつけた小笠原選手(平成29年12月)

 サッカーJ1鹿島アントラーズは27日、元日本代表MF・小笠原満男選手(39)=盛岡市出身、大船渡高校卒=が今季限りで現役を引退すると発表した。鹿島入団から21年。Jリーグ史上最高といわれる実績を積み重ねてきたばかりでなく、東日本大震災後に繰り広げた支援活動によっても地元の人々を励ましてきた〝静かなる闘将〟の幕引きに、気仙からも惜別と感謝の声が上がっている。

 

大船渡高出身プロ生活21年
Jリーグ史上最高の実績残して

 

 小笠原選手は盛岡市の大宮中学校から大船渡高校に入学し、1年生から攻撃的MFとして活躍。齊藤重信監督のもと、同校をインターハイ、全国高校選手権大会初出場に導き、平成10年の卒業と同時に鹿島に加入した。
 鹿島では、広い視野から繰り出される長短自在、イマジネーション豊かなスルーパスと攻撃センスあふれるゲームメークで早くから頭角を現し、1年目にJリーグデビュー。翌年のU―20ワールドユース選手権では、中盤の要として日本の準優勝に貢献した。
 3年目の12年からレギュラーに定着し、同年、Jリーグ史上初となるチーム三冠制覇の原動力となった。
 13年からは5年連続でベストイレブンに選ばれ、Jリーグ屈指の司令塔に成長。14年には日本代表デビューも果たし、同年の日韓大会、18年のドイツ大会と2大会連続でW杯に出場した。
 18年8月、イタリア・セリエAのメッシーナに移籍。翌年8月、鹿島に復帰してからは守備的なMFとして活躍し、チームの3年連続リーグ優勝に貢献。21年にはJリーグMVPに選ばれた。
 20冠を誇る常勝軍団・鹿島において、Jリーグ優勝7回、リーグカップ優勝5回、天皇杯優勝4回、ACL優勝1回を経験。21年間のプロ生活で計17個のタイトルをクラブにもたらした。
 個人タイトルとしては、JリーグMVP、Jリーグ・ベストイレブン6回のほか、JリーグチャンピオンシップMVP2回、 JリーグカップMVP2回、天皇杯MVPなどを獲得。その活躍、実績においてJリーグ史上最高の選手といわれるなど、日本サッカー界の歴史に輝かしい足跡を残した。
 膝の故障などにより、今シーズンは出場機会が減っていたが、ピッチ上ではその献身的プレーと、勝負にこだわる姿勢でチームを鼓舞。〝静かなる闘将〟として精神的支柱であり続けた。
 現役最後のプレーは、今月22日に行われた「FIFAクラブワールドカップUAE 2018」の3位決定戦。リーベル・プレート(アルゼンチン)との試合に途中出場し、終了までピッチに立った。
 現役引退にあたり、小笠原選手は鹿島の公式サイトを通じ、「今シーズンをもって、鹿島アントラーズで現役生活を終えるという決断をしました。これまで自分を支えてくれた方々、一緒に頑張ってきた選手達、応援してくれたサポーター、鹿島アントラーズに関わるすべての方々に感謝しています。鹿島アントラーズという素晴らしいチームでここまでプレーでき、鹿島アントラーズでサッカー選手として引退できることを、とても嬉しく、そして誇りに思います」とコメント。
 28日に行われた引退会見では、自身の今後について、クラブと関わりを持って行きたいとの意向を示した。

被災地復興にも尽力、グラウンド整備など支援/子どもたちに〝夢〟与える 

 

「東北人魂キッズフェス」として気仙両市でサッカー交流。中田浩二さんら当時の鹿島のチームメートも協力した(平成25年6月)

 小笠原選手は、高校時代の3年間を過ごした気仙地域に対し、東日本大震災後は個人として、またプロサッカー選手としての立場からも助力を惜しまなかった。
 高校の同級生である妻・かおりさん(39)の実家が陸前高田市にあることから、平成23年3月の震災直後に気仙両市に駆けつけた。避難所や母校・大船渡高校、市役所などを訪ね歩き、第2の故郷の過酷な状況を目の当たりにした際には「自分にできることは何もないのではないか」と強くショックを受けたという。
 一方、地元の〝ヒーロー〟登場に地元住民は沸いた。ファンや子どもたちから「来てくれるだけで元気が出る」と言われた小笠原選手は、自分がプロプレーヤーであるからこその支援を模索し始めた。
 同年5月には東北出身者のサッカープレーヤーで構成される「東北人魂を持つJ選手の会(略称・東北人魂)」が発足。被災地のサッカー復興のために活動する団体として、同選手も発起人に名を連ねた。
 支援物資を運び、ジャージやシューズなどを送る活動からはじめ、募金やチャリティーの実施、Jリーグ公式戦への招待、サッカーイベントの開催などに取り組むと同時に、小笠原選手は単独でも活動。24年1月には陸前高田市の高田小グラウンドでスポ少児童を招きサッカー教室を開いた。

地元の子どもたちとサッカーを通じたふれあいの機会を数多く持った。子どもらと接する時はいつも笑顔(平成25年12月)

 「自分も昔、釜本邦茂選手に教えてもらって感激した記憶がある。できることといえばサッカーしかないが、それで喜んでもらえたらうれしい」と小笠原選手はいい、子どもたちの笑顔を取り戻すため力を尽くしてきた。
 何度も気仙両市を訪れ地元のニーズを探る中、サッカーをする少年少女たちからたびたび耳にし、胸に突き刺さっていたのは、「練習したいけれど、場所がない」という言葉。多くの公共施設が被災し、校庭に仮設住宅が建ち並ぶ状況下で、「運動場が整うまで3年も4年も待っていたら、子どもたちの一番大切なときが空白となってしまう」と危惧する小笠原選手を中心に、高校の同級生らが決起。24年6月には一般社団法人「東北人魂・岩手グラウンドプロジェクト」を発足した。
 発足記念イベントを大船渡で開き、サッカー日本代表の内田篤人選手、吉田麻也選手らを招くなどしてプロジェクトをPR。両選手も戸田公明大船渡市長に「用地探しにぜひ協力を」と支援を求めた。
 同プロジェクトは企業などから整備費用として寄付を募ってきたほか、チャリティーマッチなども開催。同級生らが法人スタッフとして地元での調整にあたった。同年11月、大船渡市から用地提供を受けられることになり、岩手グラウンドプロジェクトと市が基本協定を締結。被災した赤崎小跡地を活用し、25年に仮設の「赤崎グラウンド」が誕生した。
 翌26年に市の体育施設となったのち、同グラウンドは人工芝化が進められ、29年12月にプレオープン。小笠原選手も来場しサッカーイベントが行われた際には、市内初の人工芝グラウンドで、子どもたちと同選手が笑顔を交わす姿がみられた。
 人工芝化の背景には、「雨や雪が降っても使えて、大船渡で大会を開いたり、プロの選手を呼んで一緒にサッカーしたりできる。外の人に現地へ足を運んでもらい、震災のことを知ってもらうと同時に、ごはんを食べたり何か買ってもらうような仕組みづくりが必要」という同選手の思いがあった。
 また、27年には自身の発案で「大船渡・釜石フェスティバル」をスタート。
 毎年、茨城をはじめ関東近郊の高校のサッカー部を気仙両市と釜石市に招き、地元高校との交流試合を通じて選手の技術強化を図ると同時に、復興途上にある沿岸部の状況を伝えることが目的だ。大会前日には同選手も自ら講師となり、被災と復興、防災の重要性などについて生徒たちに説明することもある。
 28年、鹿島はJリーグ年間王者に輝き、クラブワールドカップ準優勝、天皇杯優勝と明るい話題をもたらしてくれた。その翌年の東海新報社の取材に対して小笠原選手は、「気仙に帰ると、小さい子からお年寄りにまで、『見てるよ』『優勝おめでとう』と言ってもらえて本当にうれしく、励みになる。いけるところまでいきたい」と語る一方、「80歳までサッカーができるわけではない」とも話していた。
 「いつまでも俺が引っ張るわけにはいかない。グラウンドプロジェクトにしろ、子どもたちとのふれあいにしろ、『後に続くJリーガーがここから出てきてほしい』と思って取り組んできた」と、次代への強い期待をにじませた。
 大船渡高サッカー部時代の同級生で、岩手グラウンドプロジェクトの代表理事として小笠原選手の思いをともに実現してきた今野当さん(39)は、公式発表より一足先に本人から引退の知らせを受けていた。
 今野さんは「今までお疲れさま。本当にありがとう。満男にはただ、ただ『感謝』の一言しかない」と、ともに過ごした高校時代からこれまでを振り返る。
 「彼が大高に来てくれたから、全国大会にも行けた。グラウンドができたのは全国の皆さんのご協力のおかげだが、それだって満男が引っ張ってくれたからこそ実現できたこと。引退のニュースが流れ、SNSなどでのファンの反応を見るにつけ、改めて『すごい選手だったんだな』と誇らしく、胸がいっぱい」と語る。
 今野さんは「満男はこれから違った道を歩こうとしているが、『まだまだ大船渡のために頑張るよ』と言ってくれている。自分たちも赤崎グラウンドをこれだけで終わらせず、もっとよくしなければと思っている。仲のいい友達として、今後も一緒に『このグラウンドから次のプロ選手を』という願いを実現するため取り組んでいきたい」と決意を込めた。
 大船渡市は、復興支援活動や未来を担う子どもたちに夢を与えた小笠原選手の功績をたたえ、今年6月に感謝状を贈呈した。
 これに対し、小笠原選手は「ここまで汗をかいて頑張ったのは、地元の方々。感謝状は代表して受け取ったと思っている」としたうえ、「グラウンドを通じて多くの人が大船渡に来る流れができて復興の力になり、地元の子どもたちのためにもなる。素晴らしい施設ができて終わりではなく、今後どう使っていくかが大事」と話し、今後も被災地の復興や赤崎グラウンドの活用に向け、取り組みを続けていく意欲を示した。
 小笠原選手の引退について、同市の戸田公明市長は28日の記者会見で「市としても震災後、さまざまなイベント、支援をしていただき、赤崎グラウンドの整備につながった。国際試合でも活躍され、大きな功績を残された選手。素晴らしい選手に大船渡市がかかわることができ、大変うれしい。顕彰については、庁内で検討していきたい」と述べた。

 

小笠原選手の現役引退表明にまちの声は…

◆「気持ちを出す姿勢見習いたい」
 坂本健太君(17)/大船渡高校サッカー部副キャプテン
 引退表明はびっくりしたが、最近試合に出ていないのは知っていたので、納得もできた。赤崎に人工芝のグラウンドができ、大船渡の名前を広げてくれたのは小笠原選手のおかげであり、ありがたいと思う。小笠原選手からは小学校のときからサッカー教室などに参加して、さまざまなことを教わったが、特に気持ちを出してプレーに臨む姿勢は見習いたい。自分たちも、小笠原選手のように頑張っていきたい。

◆「将来は小笠原選手みたいに」
 清水颯太君(大船渡北小6年)/FCサン・アルタス大船渡所属
 小笠原選手はチームの中心として、ボールをいっぱい回していてすごいと思った。小笠原選手が頑張っている姿は励みになっていた。ポジションは違うけど、将来は小笠原選手みたいになってプロで活躍したい。少しでも小笠原選手に近づけるように頑張りたい。

◆「先輩として誇らしい」
 平 剛次さん(40)/漁業(大船渡市)
 小笠原選手は大船渡高校サッカー部の後輩。入部してきた時からうまくて、一番先にグラウンドに来ては、最後までグラウンドに残っている選手だった。日本代表になるなど、先輩としてもうれしく、誇らしく思っている。試合でも練習でも、とにかくサッカーが好きな選手だった。引退はさみしいが、あれほどの努力家なら指導者になっても、違う道に進んでも成功するのではないか。

◆「大舞台での活躍うれしい」
 小澤ゆう子さん(41)/団体職員(陸前高田市)
 サッカーは〝にわか〟ファンだけど、国際試合に日本代表として出場する小笠原選手をテレビで応援した記憶がある。気仙にゆかりのある選手が大舞台で活躍する姿を見ると、やはりうれしい気持ちになる。娘2人は剣道に励んでいる。小笠原選手のように一つの競技に集中し、練習を頑張ってほしい。

◆「活躍が大きな刺激に」
 上部朝喜さん(40)/大船渡消防署住田分署消防士長(大船渡市)
 小笠原選手は、大船渡高校サッカー部では1学年下の後輩。中学時代から日本代表だったけど、遠い存在ではなく、同じ仲間という感じだった。この年齢まで現役を続けるには、並大抵の努力ではなかったと思う。自分も消防で体を動かす業務であり、活躍は大きな刺激になっていた。息子もサッカーをやっているが、いろいろなグラウンドを移動しながら練習していた時期があったので、大船渡の環境整備にも気をかけてもらって感謝している。正直、まだ「お疲れさま」とは言いたくない。また、プレーヤーとして戻ってほしいな、という思いもある。

◆「長い間お疲れさま」
 佐々木結規さん(31)/会社員(大船渡市)
 鹿島アントラーズでずっと活躍していて、他の選手からも尊敬されるようなすごい選手だし、大船渡の支援も続けてくれているのがありがたかった。「長い間お疲れさまでした」と言いたいです。

◆「東北人魂を見せてもらった」
 菊池純一さん(61)/社会人サッカークラブ「リ・マーレケセン」代表(陸前高田市)
 気仙の子どもたちにとって、小笠原選手は大きな目標になっていたと思う。震災後はいち早く被災地に来て、子どもたちが運動できる環境づくりのために動いてくれた。〝東北人魂〟を見せてもらった。まずはゆっくり休んでほしい。そして、これからも気仙に指導に来てくれたらうれしい。小笠原選手が来てくれることで、〝第二の小笠原〟になるような選手が育ったり、気仙にクラブチームができたりするきっかけになるのではないか。

 

ー小笠原選手・プロ入り後の足跡ー

■所属チーム
 鹿島アントラーズ(1998~2006年、2007~2018年)
 メッシーナ(イタリア・セリエA、2006~2007年)
■Jリーグデビュー
 1998年4月15日ガンバ大阪戦
■Jリーグ初得点
 1999年5月5日ジュビロ磐田戦
■Jリーグ通算
 525試合出場69得点
■セリエA通算
 6試合1得点
■日本代表デビュー
 2002年3月21日ウクライナ戦
■日本代表初得点
 2004年2月7日マレーシア戦
■日本代表通算
 55試合出場7得点
■国際大会出場歴
 1999年ワールドユース選手権準優勝
 2003年FIFAコンフェデレーションズカップ
    東アジアサッカー選手権
 2004年アジアカップ優勝
 2005年FIFAコンフェデレーションズカップ
 2006年FIFAワールドカップドイツ大会
 2010年東アジアサッカー選手権
■鹿島での獲得タイトル
 Jリーグ優勝7回
 リーグカップ優勝5回
 天皇杯優勝4回
 AFCチャンピオンズリーグ優勝1回
■個人タイトル
 JリーグMVP(2009年)
 Jリーグベストイレブン(2001~2005、2009年)
 JリーグチャンピオンシップMVP(2000、2001年)
 JリーグカップMVP(2002、2015年)
 天皇杯MVP(2000年)