中吉丸の絆が絵本と映像に、小笠原村の有志制作 陸前高田の児童生徒に寄贈へ(別写真あり)

▲ 中吉丸が現在の父島に漂着した物語が絵本に

中吉丸の船員の子孫と小笠原村の有志ら

 約180年前の江戸時代に、気仙の商船「中吉丸」が漂着した縁で陸前高田市と交流がある東京都小笠原村の有志らが18、19の両日、同市に滞在した。18日に市役所や市教育委員会を表敬訪問した有志らは19日、高田町のキャピタルホテル1000で中吉丸の船員の子孫たちと交流。同村有志による「中吉丸歴史継承交流事業」の一環として制作された絵本を同市に贈るとともに、子孫らと一緒に映像作品を鑑賞した。絵本は陸前高田市の全小学生児童に配布される計画で、関係者は両市の子どもたちをはじめ若い世代の理解と相互交流が深まることを願った。

 

「この縁を伝え続けて」

 

 陸前高田の小友浦を出港した船が難破し、村からおよそ1300㌔離れた小笠原諸島に漂着したのは天保11年(1840)のこと。乗組員らは、現在の父島に暮らしていた欧米系現地住民に救出された。
 そのころの父島は〝異国〟であり、互いに言葉は通じなかったものの、島人が船員たちを親切に介抱。数カ月にわたる滞在ののち、島人の協力で中吉丸は無事に日本へ帰り着くことができた。
 当時、日本は鎖国を敷いており、こうした事実は長らく秘密にされていたため、漂着先はハワイといわれたり、フィリピンとされたりしてきた。
 しかし、昭和43年、小笠原諸島が日本に復帰した際、島人の子孫の話やペリー提督の航海日誌などから、中吉丸がたどり着いたのが父島であると判明。両地域の子孫たちの交流が始まり、平成22年には中吉丸漂着170年記念企画展が同村で開催されるなど、友好を温めてきた。
 同村では30年の返還50周年記念に合わせ、両地域の結びつきに感銘を受けた有志らが「中吉丸歴史継承交流事業」実行委員会(実行委員長・平賀洋子母島観光協会長)を発足。小笠原と陸前高田をつないだ中吉丸のストーリーの映像化と、絵本の制作をメーン事業とし、28年から陸前高田での取材や撮影にあたってきた。
 今回は、これらの完成を報告するため、平賀委員長をはじめ、村議の一木重夫さん、カメラマンの冨田マスオさん、村役場職員の佐々木英樹さん(大船渡市盛町出身)、幼少期を陸前高田で暮らした小関耕紀さんの実行委メンバー5人が小笠原村から訪れた。絵本は両地域の小学生に配布して歴史学習の一助にしてほしいとし、陸前高田には800冊を贈呈した。
 19日には旧知の船員子孫ら約10人と対面し、30分ほどの映像作品をともに鑑賞した。船主の子孫で、今月には同村も訪問した及川庄八郎さん(85)=小友町=は「感動を与えてくれる素晴らしい絵本、素晴らしいフィルムで感激。皆さんのおかげで今の私たちがある。小笠原ではこの中吉丸の絆を本当に大切にしてくれている。心よりありがたい」と謝意を述べた。
 絵本のタイトルは『アロウハ〜中吉丸漂流記〜』。「アロウハ」は島人のあいさつの言葉だが、「ALOHA」のつづりは「思いやり」「協調性」「喜び」「素直な心」「忍耐」といった別々の言葉の頭文字から成り立っているという。
 平賀委員長(78)は、「小笠原の心、陸前高田の心、そして中吉丸の物語そのものを表した言葉だと思い、このタイトルにした」と説明。「最初に中吉丸の漂着の物語を聞いたとき心から感動し、この実話を地域の歴史として伝えていかねばと強く思った。思いを持ったメンバーが手弁当で一生懸命に作ってくれた絵本と映像。作って終わりではなく、これからも仲良くしていただき、ぜひ陸前高田の子どもたちにもこのご縁を伝え続けていただきたい」と話していた。