よみがえる松坂家の墓碑 今泉のかさ上げ地に復旧 陸前高田の歴史的偉人輩出
平成31年3月23日付 7面

安土桃山時代から明治初めまで仙台藩の御金山下代(おかねやまげだい)を代々引き継ぎ、歴史的偉人を数多く輩出した旧今泉村(陸前高田市気仙町)の松坂家の墓碑が、東日本大震災の復旧工事でかさ上げされた同町今泉の高台に復旧した。名勝・高田松原の礎を築いた新右衛門定宣ら第二〜八代当主やその家族の墓碑。震災の津波に襲われたが、子孫が保管・修復してよみがえらせ、新たに先祖の偉業を伝える石碑も建立。子孫は「地域の人にも知ってもらえれば」と願いを込める。
江戸期など村民の生活救済
墓碑の復旧地は、災害公営住宅・今泉団地や龍泉寺仮本堂そばのかさ上げ地。松坂家の第十二代当主・定德さん(86)=大阪府堺市=が建て直した。
震災の津波で倒れたり、一部が壊れたが、大きな損傷は見られず、地元の石材店に仮置きしていた。復旧工事の進ちょくを受け、震災前とほぼ同じ場所に移転し、今月10日に完成。20以上の墓碑の中央には、歴代当主の功績を記した、黒御影石製で高さ約2㍍の石碑も建立した。
定德さんらによると、安土桃山時代の文禄2年(1593)、松坂徳右衛門定久が、太閤豊臣秀吉公から旧気仙郡の金山を監督する「金山物書頭立役」に任ぜられ、気仙での松坂家の歴史が始まる。
德右衛門定久は同4年(1595)、仙台藩の金山奉行「金山見分役」となり、仙台領の鉱山行政・開発管理を指導する「御金山下代」制度を制定。初代藩主・伊達政宗公の命で御金山下代筆頭役となり、以来、歴代当主が世襲し、廃藩置県に至るまで278年間、同藩の金山行政を担ったとされる。
松坂家の当主らは、多額の私財を投じ、凶作などに苦しんだ旧気仙郡や村民の救済に尽力した偉人としても知られている。
二代目の十兵衛定成もその一人。玉山金山の金鉱脈が衰退すると、金山で働く村民を守るため、現在の竹駒、矢作、大船渡市日頃市町の各地で開墾を進めた。玉山から竹駒町新田の田畑へと整備した延長2・3㌔の用水路「松坂堰」は現在も使用される。
旧気仙郡の大肝入りを務めた三代目の十兵衛定好は飢饉に陥った際、穀物倉庫を建設し、郡村民に食糧を供給した。
四代目の新右衛門定宣は1700年代初頭、旧今泉村の海岸にマツを植栽。「立神浜(たつがみはま)」と呼ばれた不毛の地に防風林を形成し、後背地の農作発展に導いた。新右衛門より先に旧高田村に面する海岸にマツを植えた同村の豪商・菅野杢之助とともに、国指定の名勝・高田松原を築く淵源(えんげん)の人物とされる。
定德さんのいとこの泰盛さん(74)=気仙町=は「先人たちを知る資料として活用され、今の小中学生がかつての陸前高田に思いをはせる一つの機会ともなれば」と期待を寄せる。
定德さんは「新たな土地に完成し安心している。多くの人に見てもらい、家族だけでなく、地域の財産となればうれしい」と話していた。