語り継ぐあの日⑦横道 毅さん(50)

震災8年6カ月

 

「逃げろ」伝え続ける
防災紙芝居の公演通じ

 

 「東日本大震災より100年も前のこと。明治29年に大きな被害を受けた、三陸大津波のお話です」──。三陸町を舞台にした「吉浜のおゆき」をはじめ、大船渡津波伝承館が制作した防災紙芝居を気仙内外で披露している、大船渡市大船渡町出身の俳優・横道毅さん(50)=東京都品川区在住。震災を題材にした作品を通じ、「大きな揺れがあったら、すぐに高台へ逃げろ」と伝え続けている。

 

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 横道さんは、大船渡高、横浜国立大学を卒業し、現在は東京の劇団「花組芝居」所属の俳優として活躍。新宿で居酒屋も営んでいる。震災後は、同市の「さんりく・大船渡ふるさと大使」や大船渡津波伝承館理事を務め、東北を舞台にしたドラマや劇にも出演している。
 平成23年3月11日は、渋谷区恵比寿で芝居を見ていた際、強い揺れに襲われた。
 「照明がぐわんぐわんと音をたてて、長い間揺れを感じた。外に出たら交通機関がまひしていて、恵比寿から店のある新宿まで歩いた時は、両脇の歩道が人で埋まっていた」と当時を振り返る。
 発災から日がたつにつれて感じたのは、「東京は人と人のつながりが弱い」ということだった。「10日ほどたって大船渡に帰ったとき、地域の人たちは互いに物を貸し借りしたり、食べ物を分け合ったりして助け合っていた。いざという時に地域のコミュニティーは必要。便利な環境に慣れてしまった東京の人たちは、きっと同じようにはできない」と、首都と三陸の防災や支え合いに対する温度差も感じていた。
 震災の翌年、新聞に掲載された内容に強くショックを受けたという。それは、東日本大震災で亡くなった人、または行方不明者の4割が、陸に津波が上がった時点で家にいた、というデータだった。
 「逃げていれば、助かる命があったはず」「同じ事を繰り返さないためには…」──。横道さんが「役者の自分にできること」を探し出合ったのが、防災紙芝居だった。

 

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 紙芝居の公演は、大津波被害の記憶を未来に伝える同伝承館が大船渡市内に開設された平成25年以降、公民館や仮設・災害公営住宅、イベント会場、講演会の席上などで展開。被災地域だけではなく、関東や関西、九州など、依頼があれば道具を持って駆けつける。
 役者歴20年余りとなる横道さんの語りは、語気や表情から、物語の登場人物たちの感情やまちの情景を繊細に表現する。大津波が襲いかかる恐怖や、家族を失った悲しみ、「子どもや孫の命を守るために」と復興へ向かう被災者らの決意が、見る人の涙を誘うときもある。
 「紙芝居の内容は決して明るいものではない。エンターテインメントとは違う」と横道さん。「初めて見る人や、災害を体験していない人はピンと来ないかもしれない。けれど、何回も繰り返し活動することで震災のことを忘れられないようにし、やがて子どもたちに伝わっていくことが大事だと思っている」と使命感をうかがわせる。
 公演はボランティアで行うことがほとんど。依頼主から謝礼を受け取ることもあるが、弁当代や交通費など度重なる出費で手元には残らない。
 それでも、横道さんは会場へ直接足を運び、生の声を届け続ける。役者として磨いてきた感性を生かし、客の息づかいや雰囲気によって語り方を変えることで、よりダイレクトに観衆に思いを伝えられるからだ。
 気仙の方言を話せることも、横道さんならではの強み。「地元出身者から発せられる言葉から、何かを感じ取ってくれる人もきっといる。せっかく遠い地域の人と会えるので、大船渡や気仙のことを広く知ってもらう機会にもしたい」と郷土愛をのぞかせる。


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 「東京では、震災のことが早い時期から忘れられていった印象がある」──。震災の記憶が薄れていく一方、国内では地震や豪雨による被害が相次いで発生しており、「どこで何があるか分からない」という不安はぬぐえない。
 横道さんは「過去に何度も大津波被害があった三陸でさえ、東日本大震災では多くの人が逃げ遅れ、命を落とした。今後は震災を知らない若者も増えていく」と警鐘を鳴らす。
 将来起こりうる災害時、犠牲者を減らすために必要なことは「一人一人が普段から〝逃げる〟ということを意識すること」。これからも、紙芝居を通して「逃げろ」と訴え続ける。「ぼくの名前は残らなくてもいい。津波の教訓を残したい」。その決意は固い。
(月1回掲載)