復興の伴走者─被災地に寄り添い続けて─①三遊亭 楽大さん(39)=東京都江戸川区在住=
令和2年3月11日付 7面

東日本大震災発生から丸9年。震災記憶の風化が進む中、震災をきっかけに被災地に足を運び、今も寄り添い支え続ける人たちがいる。被災者の消えない心の傷や、被災地が抱える地域課題に向き合い、活動を継続する復興の伴走者らに、スポットを当てる。
心に響く落語を届けたい
求めてくれる人のために
「楽大の『大』は大船渡の『大』」が、大船渡市で寄席を開くときの定番のせりふ。東京都のお江戸両国亭を拠点とする6代目三遊亭円楽一門の落語家・三遊亭楽大(らくだい)(本名・天野吉秀)さん=埼玉県草加市出身=は、震災後から何度も気仙地方に足を運び、住民一人一人の心と向き合いながら、言葉をつむいできた。
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縁もゆかりもなかった気仙を初めて訪れたのは、震災があった平成23年の夏。当時、前座から二ツ目に昇進して間もなかった楽大さんは、若手の落語家とともに被災地で落語を披露する機会があり、陸前高田市に足を運んだ。
「車で移動中、海側に大きな土のうがずらっと並んでいる様子や、山の中の川に津波で流されてきた車両が沈んでいる光景、海から遠い市街地に積まれたがれきの山を見て、『落語を聞いてもらえるのかな』という気持ちになった」と振り返る。
会場には30人ほど観客がいた。落語を終えたあと、観客の一人から「ありがとね」と声をかけられ、お金を手渡された。「『受け取れないよ』『つらいのはあなたでしょう』と言っても『いいから』と言って聞かなかった。それが、僕にとって最初の、気仙での出来事だった」と懐かしむ。
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平成26年には、大船渡市のコミュニティFM「FMねまらいん」から番組出演の声がかかり、仕事を受けた。
27年1月から1年間は「三遊亭楽大のけせんゴールド探検隊」、28年4月から3年間は「三遊亭楽大のば・ば・ばラジオ」の各番組に出演。月に1度のペースで気仙を訪れては自らの足で各地を訪ね、マイクの前で、新たに出会った景色や人とのエピソードをユーモラスに語った。
ラジオ収録とは別に、介護福祉施設での寄席披露や、イベント出演など、各方面からの誘いにはほとんど二つ返事で応じる。明るい人柄で初対面の地域住民ともすぐになじみ、ローカルなネタで冗談を語ってはお茶の間を笑わせた。
また、落語家の枠を超え、大船渡市のグルメイベントへのエントリーや、知り合った漁業者に頼んでのカキ養殖体験、同市観光物産協会が認定する「さんま焼き師」の資格取得など、好奇心の赴くまま三陸ならではのコンテンツを堪能。28年からはさんりく・大船渡ふるさと大使の任に就いて、県内外で被災地の〝今〟を伝え続けている。
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気仙と接する日々は、楽しいことばかりではなかった。
経費節約のため、東京と大船渡の移動は片道約9時間の夜行バスに乗り、時には、自分のバイクで片道約500㌔を走るケースもある。旅のあとは疲れがなかなかとれず、収入は移動費を差し引くとなくなる場合もあった。
復興に無関心な人や、同じ地域に住みながらも互いに聞く耳をもたず、いっこうに話を進められない人たちには、「自分たちの地域をより良くしたいんじゃないのか」と割り切れなさを感じた。仲間と信じ、寄り添いたいと思っていた相手に、傷つく言葉を投げかけられたこともあった。
それでも、楽大さんは気仙とのつながりを絶とうと思ったことはない。「気仙で泊まれる宿がなくなった時や、移動手段がなくなったときに、必ず誰かが手を差し伸べてくれた。よそ者の自分に優しくしてくれたみなさんには、感謝しかない」と感慨にふける。
「求められる場所があるならどこにだって行く。求めてくれる人がいるから、自分は気仙にいられる」と笑顔を絶やさない。
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気仙を訪れるようになり、自身の寄席に対する意識も変化した。「心に余裕がなければ人は笑えない。おもしろい演目でも、人が亡くなるものや、海や津波が出てくるものは、被災した地域でやっていいかどうか、すごく悩む。この場所で、自分にはどんな話ができるのか」と、常に観客の顔色をうかがう。
試行錯誤の日々を送る楽大さんは昨年10月、師から真打ち昇進の打診を受けた。今年4月には東京でお披露目会を迎える。
新たなステージに進む楽大さんは「沿岸のみなさんとの出会いが、自分を成長させてくれた」とし、「肩書が変わっても、震災から10年たっても、やることは今までと同じ。相手の心に響く落語をこれからも、客席に届けたい」とし、気仙への再訪を約束する。
(月1回掲載)