特集/震災9年 『ここで踏ん張る』事業者たち

 東日本大震災の発生から11日で9年。気仙両市では中心市街地などで被災店舗の再建が進む一方で、当初「仮設」として建てられたプレハブ造りなどの店を「本設」と位置づけ、営業を続けている事業者がいる。復興へ立ち上がり、地域経済の再生を図るべくできた象徴的施設では、新たな活用策を探る動きがあるなど今も存在感を放つ。そこで奮闘する人たちの思いに迫った。

 

細浦〝帰還〟視野に診療継続

滝田医院・滝田 有さん(大船渡市末崎町)

 

プレハブ診療所の前で「今後も地域医療を支えたい」と意欲を語る滝田さん

 「将来的には細浦に医院を移したいと考えている」。そう先を見据えるのは、大船渡市末崎町に開業する滝田医院の院長・滝田有さん(59)。県内の被災した病院・診療所としては唯一、プレハブのまま診療を続けている。
 旧医院はJR細浦駅そばに構えた。祖父、父も医師として末崎で地域医療を支えてきた。
 あの日、診療中だった滝田さんは逃げ遅れ、瞬く間に2階天井まで達した津波に全身のみ込まれた。その3年前、くも膜下出血で倒れ、命の危機を乗り越えた矢先の震災。再び死を覚悟したが、奇跡的に助かった。
 震災翌月の平成23年4月、同町のふるさとセンターに臨時の診療所を開設。その年の10月、同センターや末崎中そばの農地に仮設診療所を建てた。
 医院には町民はもちろん、市外からの受診者も多い。24年4月には、気仙医師会の会長に就き、会議も増えた。「細浦の高台に再建したい」という思いはあったが、仕事をしながら土地を探す時間的余裕はなかった。
 一方、プレハブ診療所は手狭で、来客者との面会は待合室を代用。県から有償譲渡を受け、「本設」の位置づけとなった29年春、増築に踏み切り、診療所とつながる木造平屋の建物を建てた。ベッド数は1床から3床に増えた。
 津波襲来時、一緒にいた妻は海水を多く飲み込み、一時生死の境をさまようほど重篤な容体に陥った。自分だけでなく家族も苦しんだ震災を恨めしく思い、古里から離れる別の生き方が頭をよぎった瞬間もある。
 それでもこの地にとどまった。嘱託医として訪ねる町内の介護施設入所者は、医院を受診していた顔見知りばかり。「末崎の言葉で会話し、昔から知る方々を最期まで診ることができるのは大きな喜び」。科学的根拠(エビデンス)に基づく医療の「EBM(Evidence Based Medicine)」と、患者の背景や人間関係を理解し、患者が語る「物語」と対話からアプローチする「NBM(Narrative Based Medicine)」を両立できるやりがいが、地元に根付く医師としての使命感の根幹だ。
 細浦への〝帰還〟を目指す構想とは裏腹に、現診療所も定着した。「さまざまな都合や条件で、思い描く通り細浦に戻れるかまだ見えない。でも今後も地域のために頑張っていきますよ」と決意は固い。

 

小さな店に明かり灯す

おばんざい いなほ・岩渕 恵子さん(大船渡市大船渡町)

 

青果店の目利きを生かし、丹精込めた料理でもてなす岩渕さん

 中心市街地から少し離れた場所に構える小料理店「おばんざい いなほ」。7~8人が入ればいっぱいの小さな店を切り盛りするのは、岩渕恵子さん(67)。
 父の重寿さん(故人)が創業した「いわぶち青果」を手伝いながら、須崎川に面した土地で、およそ20年前に開店。テーブルとカウンターで15席ほどのこぢんまりとした店構え。「右も左も分からず毎日が手探り」だったが、青果店ならではの旬の食材を用いた料理、落ち着いていられる雰囲気が評判となり、なじみ客がついた。
 平成23年の3月11日は金曜日。夜に団体の予約が入っており、料理の下ごしらえを終え店内でひと休みしていたところ、激しい揺れに襲われた。
 正面のシャッターが開かなくなってしまい、勝手口から外に出た。車で高台の自宅を目指したが、国道45号は渋滞。交通整理してくれた人のおかげで無事に逃れることができた。店の方に目をやると「模型が転がるように建物や船が流されていた」。
 がれきが片付いてくると、かつての街にはプレハブ造りの仮設店舗が見え始めた。「自分も何かしなければ」。再開を思い描きはしたが、資金繰りなどを考えると、すぐには踏み出せなかった。
 「銀河連邦」として大船渡と友好都市関係にある神奈川県相模原市の有志がその思いを聞き、厨房用品提供を申し出た。「門崎熟成肉」で知られる「格之進」を展開する一関市の㈱門崎、「白金豚」を手掛ける花巻市の高源精麦㈱など、県内の仲間も仕入れ面などで後押ししてくれた。
 こうして再開を果たし、仮設店舗も経て、いまのスタイルに落ち着いたのは3年前。当時、復興事業は一段落の様相を見せつつあったが、市外からやってくる人はまだ多く、心づくしの料理でもてなし、ふれあいも楽しんだ。懐かしんで遠くから訪ねてくる人もいる。
 いま、飲食店にとっては、復興事業収束に加えて新型ウイルス流行という逆風が吹く。弁当の仕出しも手掛けながら、小さな店に明かりをともし続ける。高齢の親を抱える仲間が集う場にしたいという夢もできた。「わたしにできることは料理だけ。値段以上の価値がある、地元の皆さんにもそう思ってもらえるよう、頑張っていく」と腕まくりする。

 

連携強め、地域の〝ハブ〟に

高田大隅つどいの丘商店街(陸前高田市高田町)

 

地域の発展へ、一歩を踏み出した太田さん㊨と佐々木さん

 陸前高田市高田町にある「高田大隅つどいの丘商店街」。被災事業者らが入居する仮設商店街としてスタートを切った同商店街が、震災発生から9年を迎えた現在、新たな局面を迎えている。
 同商店街は平成24年、計13事業者が入居する仮設商業施設としてオープン。30年9月の利用期限を迎えるにあたっては、カフェフードバー・わいわい店主の太田明成さん(53)が「業種関係なく連携し、新事業を展開したい」との思いから、施設の払い下げを受け、同じ志を持って施設への残留を決めた(一社)SAVE TAKATA代表理事の佐々木信秋さん(37)とともに活動を開始した。
 現在は、太田さんが代表理事を務める(一社)タカタコレクトタウンが運営を担い、6の事業者が入居。太田さんは「さまざまなアイデアを温め、孵化(ふか)させる場所に」と、同商店街の名称を「たまご村」に変えるといい、「人と人とをつなげることで生まれるにぎわいづくりや、人口減少、高齢化、震災の風化といった地域課題に対応する仕事の創出、困りごとを持つ人々への伴走支援など、商業の枠組みにとらわれない施設に生まれ変わらせたい」と意気込む。
 「たまご村」のコンセプトは、①食べる②働く③暮らす──の三つ。居酒屋や減塩弁当の販売、ケータリングといった「食」に関する事業を行うと同時に、シェアオフィスとしての機能も整備。さらに、デイサービスや高齢者の生きがい・楽しみづくり、訪問介護にかかる事業の拠点にもしたい考え。今年1~2月にかけては、施設を「コワーキングスペース」「プレイルーム」「レンタルスペース」の三つにゾーニングするための施設改修を目的とするクラウドファンディングにも挑戦し、1カ月余りの期間で約460人から支援が集まった。
 佐々木さんは「産みの苦しみを実感しているところ。人口減少、高齢化が進む中で、事業者や他地域と連携していかなければ、まちの発展は期待できない。異業種または地域で協力して活動することを『たまご村』で実現し、事業者同士が連携し合う地域になってくれたら」と期待を寄せる。
 太田さんは「この場所は、人と人とをつなぎ、それぞれが持つアイデアを掛け合わせられる地域の〝ハブ〟。一人では実現が難しいこともみんなで共有し、一緒に考えていけるような施設にしたい」と見据える。

 

地域に根ざした営業を
タクミ印刷㈲(陸前高田市高田町)

 

本設となったプレハブ施設で営業するタクミ印刷

 昭和60年に創業したタクミ印刷㈲(熊谷千洋代表取締役)。震災前は高田町の中心部に社屋があり、社員12人が働いていた。
 熊谷代表取締役(70)は9年前を振り返り、「今までにない地震で、最初に避難をと思った。近くの市役所にと考えたが、どうせ逃げるならもっと高台の方がいいと社員たちに呼びかけた」と話す。
 社員らは全員無事だったが、社屋は津波で全壊。社員全員で今後を話し合い、全社員の解雇を決めた。
 休業状態が続く中、各所で復旧・復興事業が始まると、建設業者などから「名刺を作ってほしい」「礼状を作りたい」といった依頼が来るように。「お客さんに頼りにされているのなら」と、現在の施設近くにプレハブ小屋を構え、パソコン1台とコピー機で依頼に対応。次第に、住所変更のはがきや伝票などの注文が増えてきた。
 その後、県印刷工業組合を通じて国のグループ補助金の採択を受け、平成24年5月に現在のプレハブ施設で本格的な営業を再開。すでに別の仕事に再就職した人もあり、戻ってきた社員は8人だった。
 熊谷代表取締役は、「本当は全員が戻ってきて前のようにやりたかったが、世の中がまだ戻っていないし、印刷の世界もデザインは自前で、印刷だけを依頼するケースが増えていた」と本格再開までに起きた変化を語る。
 「それでも、全国太鼓フェスティバルのポスター制作や、震災前のお客さんから依頼があると、仕事が戻ってきているかなと感じることもある」と話す。これまで、震災前の記憶を残す写真集の発行、気仙の面白い方言を表紙にした「とびゃっこメモ帳」にQRコードを添えて動画と連動させるなどの取り組みも図ってきた。
 仮設施設での営業も5年の期限を迎え、昨年秋に市から譲渡を受けた。仮設だった施設で、今は〝本設〟として営業を続ける。
 「当初は高台に本設をとの思いもあったが、今はなかなか難しい。社員らも津波の不安がない高台の方が安心して仕事ができるようだ」と熊谷代表取締役。「もともとプレハブ施設から創業した会社であり、同じプレハブでも今の方が当時の施設よりずっと立派。地域に根ざした印刷会社として、この施設で頑張れるだけ頑張りたい」と力を込める。