復興の伴走者─被災地に寄り添い続けて─③木谷 正道さん(72)=神奈川県平塚市在住=

碁石と大船渡を広く発信
「囲碁のまちづくり」けん引

 

 「碁石」の名称を生かした大船渡の復興と振興を目指そう――。東日本大震災の復興支援活動でつながった市内外の有志による「囲碁のまちづくり」。大船渡を囲碁ファンの聖地として発信し、全国の愛好者を呼び込む仕掛けづくりの先頭に立ってけん引し続けているのが、神奈川県平塚市在住の木谷正道さんだ。

 「昭和の名棋士」と称され、500人を超す一門を育てた木谷實九段(故人)の三男。幼少時から生活と囲碁は切っても切れないものだった。東京都職員を経て防災関係のNPO法人役員を務める傍ら全国各地で囲碁を生かしたまちづくりに携わり、大船渡とは碁石地区の復興を応援する災害復興まちづくり支援機構を通じて縁が生まれた。
 「『碁石』の地名を復興に生かしたい」。そんな地元住民の熱い思いを実現させたいと動き始めた平成26年1月、埼玉県川越市での棋聖戦前夜祭席上、小川誠子六段(故人)の紹介で、大船渡町出身で同じように「碁石」を基軸としたふるさと振興を描いていた石鍋(旧姓・鵜浦)博子さんと知り合う。石鍋さんら仲間とともに同年2月、「碁石海岸で囲碁まつり実行委員会」を旗揚げし、その代表に就いた。

 それからというもの、何度も大船渡へ足を運び、碁石地区の住民たちが暮らす仮設住宅の談話室で〝作戦会議〟を重ね、同年7月、碁石海岸で囲碁まつりを初めて開催。首都圏から80人余りの囲碁ファンが大船渡に集い、碁盤を囲みながら交流を深めた。
 これ以降、大船渡での囲碁まつりは昨年までに6回開催し、この中で全国や台湾、韓国の盲学校生を対象とした大会も実施するなど、幅広い発信に努めてきた。
 また、27年には「5月14日を『碁石の日』に」として1万926筆の署名を集め、市議会での請願採択を経て、翌28年には市が制定した。
 同年は、碁石海岸の玄関口に鎮座し、「三面椿」があることで知られる末崎町中森の熊野神社に石づくりの碁盤を奉納。「囲碁神社」として発信する算段も整えるなど、仲間たちとともに精力的に動き続けてきた。
 こうした布石があって、30年2月に棋聖戦、昨年5月には本因坊戦と、3大タイトルのうち二つの大船渡開催もかない、全国への「囲碁のまち大船渡」アピールにつながった。

 活動を通じて伝わってきた大船渡の魅力は「人」。復興のさなか、生活再建の道筋も定まっていない人が多い中での囲碁まつり開催提案にはためらいもあったが、思い切って協力を依頼したほとんどの人が、誠実にそして熱意をもって応えてくれた。
 「最初は碁石海岸の景観に魅せられ、次いでサンマやカキなど海の幸を楽しんだ。もちろん、それらは間違いなく素晴らしいが、いま大船渡を訪問する時は、『皆さんにまた会える』という思いに満たされる」と語る。
 囲碁は「手談」とも呼ばれる。「言葉を交わすことがなくてもコミュニケーションをとることができ、さらには、人をつなぐ力や支え合いを生み出すこともできる」。その実感は、大船渡での活動を通じてさらに深まった。

 「一過性ではない復興の力とするため10年間は続け、地元の皆さんにバトンをつないでいく」。この信条をもとに、今年は秋に「世界碁縁芸術文化祭」を開き、3大タイトルで残る名人戦の併催を目指すという方向性を固めつつあった。
 たくさんの人々が大船渡で築いてきた輪。これを一段と大きく、多彩に広げようとしていたところで、新型コロナウイルス感染症が大きな壁となって立ちはだかった。
 県境をまたぐ移動や多くの人が集まる催しは御法度となってしまった中、インターネット会議ツールを活用した「みらクルテレビ」を4月に〝開局〟した。
 囲碁、音楽、防災、障害福祉など、多彩な分野の人々が、距離を超えて顔を合わせ、肉声でコミュニケーションを取り合う。「バーチャルな空間ではあるが、参加者の意識、コミュニケーションの質は見事にリアルだ」といい、これを活用した世界碁縁芸術文化祭の開催も検討。大規模災害が発生した際には情報発信にも役立てるアイデアもある。「こうした取り組みが生まれたのも『囲碁のまち大船渡』の大きな成果。現地とオンラインの両方で、末永く交流することもできそうだ」と語る。
 ただ、「バーチャルではおいしいお魚が食べられない」。「コロナが収まったら真っ先に大船渡に行き、懐かしい人々に会い、一緒にサンマを食べたい」と再訪の日を心待ちにする。(月1回掲載)