戦後75年 体験記に再び光 「戦犯」としての日々つづる 故・佐藤政勝医師著『私と巣鴨』

▲ 佐藤政勝医師㊨と妻の房子さん。佐藤医師が著した『私と巣鴨』が終戦から75年の今年、家族らによって再刊行された(『私と巣鴨』より)

拘置所収容も東京裁判で無罪に

戦前・戦後は大船渡に開業


 戦争犯罪人の嫌疑をかけられ、東京都豊島区にあった「巣鴨プリズン(拘置所)」に収容された経験を持ち、無罪放免後に大船渡市大船渡町で開業医として市民の健康づくりに尽くした故・佐藤政勝医師が、昭和50年に著した『私と巣鴨』が今年、家族の手によって復刻した。きょうで終戦から75年。大戦を知る人が少なくなり、記憶の風化が叫ばれる中、佐藤医師がつづった貴重な体験記は輝きを放っている。

 

家族らの手で復刻

 

 佐藤医師は明治39年、山形県西村山郡朝日町に生まれた。岩手医大の前身である岩手医専を昭和9年に卒業後、北海道の鉱山医局勤務などを経て、同15年に大船渡町で開業。応召された弘前陸軍病院に、大船渡と陸前高田に病院を構えていた医師がおり、この医師から「大船渡の病院を貸そう」と声をかけられたのが、「第二の古里」と愛した大船渡へ赴くきっかけになったという。
 開業から2年後、再び弘前陸軍病院に応召される。担当していた尾去沢鉱山(秋田県)の米軍捕虜収容所において「患者2人に薬を与えずに死に寄与した」などの疑いをかけられ、終戦後の20年11月、妻と1男3女を大船渡に残して巣鴨拘置所に収容。同23年1月の東京裁判で無罪となり、同年3月、大船渡町に「佐藤医院」を開いた。
 その後は医業の傍ら、大船渡地区公民館長、市教育委員、警察医などのほか、大船渡ライオンズクラブや気仙医師会の要職も歴任。市書道協会長や民謡保存会長も務め、文化高揚の一翼を担うなど、多方面で地域発展に尽くし、昭和63年9月に83歳で亡くなった。
 『私と巣鴨』は古希を前にした昭和50年に刊行。戦犯として逮捕された政治家や軍人が収容されていた拘置所での日々をはじめ、大船渡に残した妻との手紙のやりとり、東京裁判の法廷の様子を詳細に描く。第1次近衛内閣で文部参与官などを務め、同時期に巣鴨に拘置されていた池崎忠孝(赤木桁平)から指導を受けた詩歌などもおさめ、序文は同じく巣鴨で親交を深め、のちに首相を務めた岸信介が寄せている。
 刊行から歳月がたち、家族の手元にも残数はわずかとなり、昨年11月に亡くなった長女の小笠原紀子さん(享年79)が中心となり、「この本がなくなるのはしのびがたく、後世の人たちの目にとまり、少しでも役に立てば」と再発行を決めた。
 小笠原さんが晩年を暮らした青森県八戸市の知人らの協力もあって、今年1月に500部の再発行をかなえた。3年前まで大船渡で暮らし、現在は八戸にいる三女の佐藤博子さん(75)は、「前々から家族の気持ちの中にあったことで、多くの皆さんの協力で形にすることができた」と喜ぶ。
 佐藤医師は大船渡市民でただ一人、戦犯の扱いを受けたといわれる。博子さんは「わたしは幼かったので覚えていないが、父が大船渡に戻って間もないころは、後ろ指をさされることもあったと聞く。巣鴨のことは余り多く語らず、いつも言っていたのは『人には親切にせよ』ということだった」と、在りし日をしのぶ。
 『私と巣鴨』で佐藤医師は、戦時だけでなく昭和35年のチリ地震津波被災についても描く。大船渡町が大被害を受け、自らの医院も流失した中で復興への決意を詠んだ「生きて又 津浪の土に 種子おろす」の句もみられる。
 昭和57年、佐藤医師はこの句を碑に刻んで高台の加茂神社に建立。「津波警報塔」と並んで立っており、東日本大震災を経験した市民らの共感を呼ぶ。被災から60年の節目となった今年、警報塔の碑文移設を機として句碑も注目を集めている。
 八戸に移り住むまでの間、碑周辺の草むしりなどを行ってきた博子さんは、「父の句に光を当てていただいたようで、心からうれしく思う」と話す。
 再発行版は親しい人たちに配布したほか、佐藤医師の孫で八戸在住の中里敬子さんが窓口となって販売(税込み2000円)にも応じている。問い合わせは中里さん(℡、FAX0178・73・2909)まで。