検証/三木・ランバー破産問題㊤

▲ 7月末、三木事務所には事業継続断念の告示が掲示された

継続断念の経緯は
過去に突然の赤字転落も

 

 住田町が掲げる「森林・林業日本一のまちづくり」の〝中核〟として設立され、世田米の木工団地で工場を稼働していた三陸木材高次加工協同組合(三木)と協同組合さんりくランバー(ランバー)の破産は、町内に大きな衝撃を与えた。両事業体は町から多額の公的融資を受けており、町が有する債権総額は13億円を超え、一般会計予算の約3割にも相当する。この回収に向けて町は両事業体の連帯保証人とその相続人に対し、融資の未返済分や利息など合わせて約10億5000万円の支払いを求めて提訴。来年1月15日(金)に第1回口頭弁論が予定されており、裁判を通じて融資に至る経緯の詳細も明らかになるとみられる。両事業はなぜ経営破綻に至ったのか、町の融資は妥当だったのか──。林業のまち・住田の存立基盤を揺るがす破産問題の核心を探る。(清水辰彦)

 

 住田町はこれまで、造林から木材の生産、流通・加工、住宅生産、販売に至る一連のシステムの充実強化を図るため、川上から川下に至るまでの林業施策に取り組んできた。
 川下部分では、昭和57年に第三セクターによる住田住宅産業㈱、平成5年にけせんプレカット事業協同組合(プレカット)が設立された。
 平成10年には大槌・気仙川流域の林業事業者18団体の出資により三木が設立され、主に構造用集成材を製造する施設として11年に稼働を開始。ランバーは、14年に同じく9団体の出資で設立され、主に丸太を集成材用ひき板(ラミナ)に製材、乾燥して三木に供給する施設として15年3月に稼働。これにより、地域林業の振興を目指して整備を進めてきた一連の木材加工システムの施設整備が完結した。
 三木とランバーにけせんプレカット事業協同組合を加えた3事業体による木材加工の新業態は、「森林・林業のまち」としての知名度アップや雇用創出に成果を挙げ、小規模ながらも先駆的な取り組みとして全国的に注目を集めた。
 こうした中、町は平成18年、「売り上げ増加が見込まれる中、資金回転を潤沢にするため」として、農林業振興資金貸付基金から三木に8000万円、ランバーに4000万円をそれぞれ融資。しかし、翌年、両事業体の経営危機が表面化した。
 19年3月期の決算では、三木が970万円、ランバーが750万円の黒字だったが、9月の中間決算では一転、三木が5億1000万円、ランバーが1億8500万円の大幅な赤字を計上した。金融機関からの新規融資が受けられないという危機的状況下、町は議会に基金額と貸付上限額を引き上げる同基金条例改正を提案し、議会もこれを可決。これを受け、町は緊急融資を行い、両事業体の破たんを回避させた。
 経営危機の原因については、17年春以降の国産材需要増を受けたコスト度外視での生産、不良在庫処理、品質の良くない原料の仕入れによる歩留まり低下、建築基準法改正による住宅着工数の減少などの影響が挙げられていた。
 これらに加え、三木の元理事はランバーが生産したラミナを三木が集成材に加工、それを木工団地内のけせんプレカット事業協同組合に供給して住宅構造材を生産するという、設立当初に描いていたシステムが「うまく機能しなくなっていた」とも振り返る。
 3事業体がそろい踏みした当初は、三木・ランバーの製造品の4~5割をこの流れに乗せる事業展開を見越していたが、経営危機表面化前には2割を切っており、関係者の一人は、「ハウスメーカーの材料指定に応えなければならないプレカットと、自らの製造品を供給したい三木・ランバーの間に溝ができてしまった」と振り返る。
 こうした背景があったにせよ、短期間での莫大な赤字計上は町民の間に不信感を広げた。関係者からは「ずさんな経営の結果なのでは」「一体どんな経理をしていたのか」との声も上がった。

 町は、両事業体の経営破たんが地域経済に与える影響などを考慮し、平成18年4月以降、19年10月、20年1月にも融資を行った。計3回にわたる融資の総額は三木が4億円、ランバーが3億9000万円。合計で7億9000万円という巨額の公金が、両事業体の〝救済〟に注ぎ込まれた。
 この融資金について、町は職員を三木に派遣して管理。両事業体の理事に関しては平成19年の融資と引き換えに実質的な経営権を失い、三木の元理事長である故・中川信夫氏をトップとする新執行体制に移行した。
 その後、融資償還開始を計画していた26年度は返済がなく、再び赤字が表面化。27年10月~31年3月には、けせんプレカット事業協同組合の泉田十太郎専務(現理事長)が、両事業体の経営指導を行う支配人の役割を務め、従業員らの主体性を生かしながら黒字化を進め、27年度から融資返済を開始した。
 しかし、抜本的な財務内容の改善には至らず、近年は厳しい資金繰りが続いていた。
 7月末、両事業体はついに事業継続を断念し、盛岡地方裁判所一関支部に破産を申請。結果的に、町の巨額融資は、2事業体を〝延命〟させたが、再建には至らなかった。