未曾有の災害 学びと課題 ―災害公営住宅、高台移転地等住民アンケート― 

 東日本大震災から10年の節目を迎えるにあたり、東海新報社では大船渡、陸前高田両市の災害公営住宅や防災集団移転地などの住民を対象に、アンケート調査を実施した。「暮らし」「復興感」「震災の教訓」の3テーマで、被災地のいまと将来課題を探った。

 調査票配布総数2394通(災害公営住宅1527通、高台移転地等867通)※令和3年1月4日~9日、戸別配布(ポスティング)による
回答836通(回収率34.9%)※郵送による

 

回答者の属性

◆性 別◆
男性…377 女性…428 回答なし…31
◆年 代◆
10代…1 20代…13 30代…28 40代…67 50代…120 60代…217 70代…248 80代…117 90代…21 回答なし…4
◆住 居◆
災害公営住宅…375 高台移転地等…433 回答なし…28
◆被災の有無◆
被災した…798 被災していない…34 回答なし…4
◆職 業◆
自営業…96 会社員…149 公務員…21 パート/アルバイト…83 無職…404 学生…1 その他…70 回答なし…12
◆同居家族構成◆
一人暮らし…262 夫婦のみ…174 2世代世帯…275 3世代世帯…84 その他…37 回答なし…4
◆現住所◆
盛…59 大船渡…52 末崎…81 赤崎…61猪川…14 立根…23 越喜来…37 綾里…19 高田…215 気仙…107 広田…55 小友…48 米崎…53 矢作…3竹駒…6 回答なし…3
◆震災前の住所◆
盛…16 大船渡…99 末崎…84 赤崎…75猪川…1 立根…2 越喜来…40 綾里…23 高田…184 気仙…125 広田…59 小友…36 米崎…55 矢作…3竹駒…8 気仙地区外…17 回答なし…9

 

【暮らし】求められる心のケア 将来の移動や家賃に不安も

 

 

主な理由
「早かった」 
・震災後3年で防災集団移転を実現した(越喜来70代男性)
・工務店と早く話が進んだ(広田70代男性)
・災害の大きさを考えると早いほうだと思っている(小友90代男性)
「やや早かった」 
・地主の厚意により工事が早かった(気仙60代男性)
・災害公営住宅に早い時期に当選し入居できた(立根60代女性)
・早期に移転先が決まり工事も早かったと思う(米崎30代男性)

「どちらともいえない」 
・もともといつ建てられるか見当もつかなかったので(米崎40代男性)
・震災の規模が大きく、判断しかねる(越喜来70代男性)
・ほぼ想定の範囲内(高田40代男性)

「やや遅かった」 
・生徒さんたちに申し訳なく、早く校庭を開放してやりたいと思ったから(大船渡70代女性)
・二重ローンになるので迷った(赤崎60代男性)
・今泉地区の高台引き渡しに2~3年の差があった(気仙70代女性)

「遅かった」
・移転地の整備遅れ(多数)
・遺跡等の確認のため時間がかかった(末崎70代女性)
・2~3年でめどがつくと思っていた(米崎50代男性)
・災害公営住宅の申込をしてもなかなか当たらなかった(高田50代女性)

 

 

Q 生活面で困っていることは
 ・運転ができなくなった場合の移動手段確保(多数)
 ・子どもを遊ばせる場所が近くにない(高田20代男性)
 ・住宅ローンの返済(気仙40代女性)
 ・震災によることはないがコロナの影響がたいへん(米崎40代男性)
 ・自営業だが以前のような収入が得られない(高田50代女性)
 ・地元で働く場が少ない(高田50代女性)
 ・市街に出るまで時間がかかる。駅までの交通手段が不十分(越喜来50代男性)
 ・金融機関や商店が近くになくとても不便(赤崎60代男性)
 ・災害公営住宅の家賃が高騰し、新たに借金をして住宅を購入することになってしまった(盛50代男性)
 ・災害公営住宅に来客用の駐車場がない(猪川60代女性)

 

 解説 東日本大震災がもたらした経済や心身への影響は10年を経てもなお、色濃く表れている。心身への影響としては「精神面の不調」が62%と突出して多く、ポスト復興期においても引き続き心のケアが求められていることをうかがわせる。
 住まいの再建(転居)時期のスピードについては、半数近くが遅さを感じている。選択したのは持ち家の世帯が多く、理由としてはかさ上げ地や高台整備に要した時間、建築ラッシュによる工務店の順番待ちなどが挙がった。
 大規模な土地区画整理事業に時間を要した陸前高田市では、整備完了後の土地に空きが目立つ。戸羽太市長はこのことを踏まえ、昨年10月に来市した平沢勝栄復興大臣に対し、今後の大規模災害への教訓として、短時間でコストをかけず臨機応変な対応ができる「復興版区画整理事業」の必要性を訴えてもいる。
 ついの住まいでの暮らしには「住み続けたい」という肯定的な回答が多かった一方、災害公営住宅入居者は収入に応じて上がる家賃が重くのしかかる現状も訴える。
 また、交通不便または将来的に自動車を運転できなくなった場合の不安が多く寄せられた。「商」と「住」の分離が図られた中にあっては、BRTや路線バスの「幹」だけでなく、自治体が実証実験を手掛けてきたデマンド交通など、細かなところまで行き届き、かつ使い勝手のよい「枝葉」が求められていきそうだ。

 

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【復興感】整備後の空き地や人口減への懸念も

 

主な理由
「感じる」「やや感じる」
・インフラ整備が進展したから(多数)
・10年でここまで来ればすごいと思う(高田30代男性)
・道路もよくなっている。家もどんどんたっている。港の方は明かりもついていてとてもよい(盛70代女性)
・公共の建物は津波前以上となった(高田60代男性)
・衣食住に必要な物は市内でそろえられる(米崎50代男性)
・JRや北里大学がなくなったのは残念(越喜来60代男性)

「どちらともいえない」
・人口減少、整備後の空き地の多さ(多数)
・魅力が足りない街になった(末崎50代男性)
・無駄が多いように感じる(気仙70代女性)

「感じない」「あまり感じない」 
・人口減少、整備後の空き地の多さ、復興工事の遅れ(多数)
・アバッセ付近にしか建物がない(気仙30代男性)
・生活面でかろうじて動きがあるだけで活気は感じない(越喜来60代女性)
・若い人たちが勤めるような企業がない(大船渡60代女性)
・ハコモノ行政なので先行きが心配(気仙60代男性)
・何事も不便だから(赤崎60代男性)

 

主な理由
「感じる」「やや感じる」
・震災前のコミュニティーが戻ってきた(気仙70代女性)
・公園なども完成し、休日に親子連れや子どもたちが遊んでいる姿を見ると復興してきたと感じる(大船渡30代女性)
・お祭りなどができたので(末崎50代女性)
・ダンプカーがあまり見えなくなった(米崎50代男性)

「どちらともいえない」
・中心部を外れると取り残されている感じが否めない(小友50代男性)
・船河原からの道路ができた時に復興を感じると思う(末崎60代女性)
・住民がばらばらになってしまった(高田70代男性)

「感じない」「あまり感じない」
・復旧はしたが復興はあまり実感していない(越喜来10代男性)
・県道や市道が未完で不便(赤崎80代男性)
・住民の40%しか戻っていない(気仙90代男性)
・被災した小学校をそのまま使っているから(小友40代男性)
・盛り土地区に空き地が多い(高田60代男性)

 

 

Q復旧・復興事業の実施にあたって十分な住民合意はあったか
 「あった」…123人(15%)
 「なかった」…137人(16%)
 「わからない」…543人(65%)
 回答なし…33人(4%)

 「なかった」の理由
 ・説明会はあったが意見交換の機会は少なかった(米崎60代男性
 ・市外に避難していた時期もあり、何がどういったプロセスで決まったのか分からないまま(小友40代男性)
 ・個別に意見を求められることはなかった(赤崎50代女性)
 ・市役所の建設位置の決定などを見ると「なかった」と思う(高田80代男性)
 ・住民に10年先20年先を考える余裕がなかった(気仙60代男性)

 

Q震災直後から生活が落ち着くまでの間、役に立った支援は
 ・日用品や義援金、医療費の減免、国内外からのボランティア 自衛隊の災害派遣(多数)
 ・建設業協会による住宅講座(気仙60代女性)
 ・市の支援員さんや社協さんに困りごとはないですかと声をかけてもらったこと(大船渡70代女性)

 

Q震災直後から生活が落ち着くまでの間、不要だった支援は
 ・千羽鶴(高田30代男性)
 ・世の中からの頑張れコール(綾里30代女性)
 ・ばか騒ぎをするレクリエーションは不要だったと思われる(越喜来60代男性)

 

Q充実してほしかった支援は
 ・市外避難者やみなし仮設住宅入居者への情報伝達(多数)
 ・仮設住宅の大家族用の間取り(気仙50代女性)
 ・避難所でのプライバシー確保(米崎60代男性)
 ・ペットに対する支援(猪川40代男性)

 

Qいま必要な支援は
 ・医療費減免、災害公営住宅の家賃見直し、移動手段確保(多数)
 ・ない。むしろ支援体質からの脱却が必要(高田30代男性)
 ・子育て支援をもっと重視してもらいたい(高田20代女性)
 ・自治会運営の手伝い(小友60代男性)


 解説 市全体または居住する町の復興感の受け止めに関する問いでは、それぞれ半数近くが主にハード整備の進展を背景として肯定的な回答を寄せた。その一方で、かさ上げ地や浸水跡地における未利用地の多さと人口減少・流出を懸念する声が多い。
 主要事業の受け止めは評価が割れた。事業の実施前に十分な住民合意があったかについては、「分からない」が6割以上となり、残りは「あった」と「なかった」で分かれた。「なかった」の回答理由には、説明はあっても意見の聞き取りが欠けていたといった指摘があり、スピード感が求められる中で議論を尽くすことの難しさが改めて浮かび上がった。

 

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【教訓】「あの日」の経験を次代につなぐ

 

「ある」と答えた人の教訓
 ・地震があったら高台へ逃げる、自分の命は自分で守る(多数)
 ・直線的に高台に避難して引き返さない(気仙70代男性)
 ・最新の情報入手と行動判断(気仙50代女性)
 ・地域の道路(山道)を知っておく(気仙50代女性)
 ・ガソリンは常に満タン(広田20代男性)
 ・公の防災より自分の防災(高田60代男性)
 ・家族の間で集合場所を決めておく(高田40代女性)
 ・お互いに助け合うことを改めて思い起こされた(高田70代男性)
 ・会社での防災訓練が役だった(小友60代女性)
 ・近所とのつながり(小友70代女性)
 ・警告を軽く見ない(米崎60代女性)
 ・大きな地震の時は竹駒でも高い所へ避難する(竹駒50代男性)
 ・ここまでだったら津波は来ないだろうという考えを捨て、大丈夫と思い込んで安心しないこと(盛40代女性)
 ・避難に車を使うのは避けた方がよい(赤崎50代男性)
 ・過去の津波の大きさにとらわれずに避難をすること(末崎60代男性)
 ・反射式ストーブが一番よい(越喜来30代男性)
 ・食べ物を粗末にしない。節約(大船渡50代女性)
 ・数日生活できる備えが必要。家庭内での連絡(綾里50代女性)

 

風化の実感の主な理由
「思う」「やや思う」
・子どもが成長したが震災のことはあまり知らない(盛40代女性)
・テレビや新聞が取り上げる回数が減ってきた(気仙60代男性)
・国会を見れば分かるでしょう(綾里30代女性)
・時間がたてば仕方ないことだと思う(赤崎20代男性)
・津波の話でなくコロナの話ばかり(気仙70代男性)
・昔の街の風景を忘れてきているから(米崎40代男性)
・防災訓練の参加者が減っている(越喜来50代女性)

「どちらともいえない」
・東北の人は忘れていないが全国的には忘れられている感じがする(猪川50代女性)
・世間は分からないが経験者は一生忘れない(高田40代女性)

「思わない」「あまり思わない」
・震災を昨日のように覚えているから(気仙80代男性)
・心の奥にはあの時の体験が深く残っているはず(猪川60代女性)
・自分が経験したことは次世代の人たちにも語るものです。風化することはない(広田70代男性)
・口に出さないだけで、忘れられないものだと思う(竹駒60代女性)
・学校で月1回の避難訓練や津波学習をしているから(大船渡30代女性)
・人と話していると当時の話題が出て涙が出る時がある(越喜来80代男性)

 

 

 

陸前高田市の中心市街地に設けられた避難サイン

解説 津波常襲地の気仙にあって、未曾有の規模となった東日本大震災津波。70%余がこの経験から得た教訓が「ある」と答え、即高台へ逃げることなどの大切さを訴える。また、半数が「津波てんでんこ」に代表される、先人が残した教訓が今回の避難行動などに役立ったとしている。
 震災の風化については、「思う」と「やや思う」が半数以上を占め、理由としては全国各地で相次ぐ大規模災害や歳月の経過などが多く見られた。
 防災意識に関する問いでは、およそ8割が震災前に比較して防災意識が高くなったと回答。発災時、津波を想定した最寄りの避難所を知っていたと答えたのは約7割で、現在の避難所を知っているという回答は約8割に上ったことにも、その意識が見られる。一方で、日頃からの非常時の持ち出し品準備については有無が分かれた。
 震災後も、全国で大規模災害が相次いで発生している。経験から得た今後の備えとして必要なことは、「防災品や食料などの備蓄」が最多で、「医療体制の強化」「避難訓練や防災教育」「教訓の伝承」「堤防や道路などのインフラ整備」などと続いた。
 今後もやってくる災害。命を守る事前の備えのあり方に向け、東日本大震災を経験した人々の声は、大きな示唆を与えている。

 

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【震災10年の思い】気仙の住民「いま」の気持ち

 

・震災時、船を沖に出し一晩夜を明かしたが、こんなことは二度とするものではない。命が一番なので、すぐ高台に逃げることが一番大事だと思う。(綾里70代男性)

・戻れるのなら震災前に戻りたい。(米崎60代女性)

・風化は進んでほしくないが、自分たちもいつまでも被災者という意識をなくし、自立しなくてはと思う。(気仙50代男性)

・10年で区切りをつけるべき。いつまでも被災者でいてはいけない。めぐさい。(小友30代女性)

・あっという間の10年…。必死に家を建てローンを組んだ。50代半ば…。75歳までのローンが重くのしかかるのはこれから先です。(竹駒50代女性)

・学校などなくなって寂れてしまいました。年寄りばかり残るのかな。交通もなくなったし。(越喜来80代女性)

・当時の被災状況を考えれば、よくここまで復興できたと思う。これは国の復興事業の進展が大きいが、増して多くの人たちの善意の支援が大きい。今でも支援してくださった人たちへの感謝の念を持っている。(末崎70代男性)

・10年も経過すると忘却になる。しかし、語り継ぐことを大事にしたい。(大船渡70代男性) 

・あの恐ろしい津波…。すべての財産を失った心境は経験してみて初めて知った。こんな思いは子孫には、いや、ほかの誰にも経験させたくないと思います。(小友70代女性) 
・必死で進んできた10年だった。あっという間だった。10年経ったからといって何かが変わるわけではないので、それぞれのペースで生きていけたらいいと思う。(高田40代女性)

・今後このような大規模災害が起きないよう祈るだけです。(気仙60代男性)

・亡くなった家族の遺影は当時のものなので、時間が止まって感じることもある。生きていたらあんな感じになっていたんじゃないかとか、楽しく暮らしていただろうにとか、毎年命日には思うが、より一層思いが強くなっている。(赤崎50代女性)

・早かった。みんな頑張った。みんなすごいと思う。いまは前を向いてしっかり進んでいきたい。(高田30代男性)

・地震とは何か、津波とは何かを知るだけで、十分な防災意識となり得る!(大船渡70代男性) 

・県内外の多くの人たちの生活支援により復興したと思っていたところに、異常気象による豪雨災害、また、海水温の上昇により貝毒が発生。ホタテ、カキ、ホヤを出荷停止し、また、コロナ発生による販売不振。今後、生活面で不安だらけです。(越喜来70代男性)

・振り返ったら何もなかったあの日から間もなく10年になろうとしている。遠い昔のことのようでもあり、昨日のことのようでもあり…。何もかも失って身も心もずたずたの毎日、それでもがれきの下から助け出されていまがあると思えば、少しでも何かの役に立ちたいと頑張ってきた。仮設の思い出は感謝しかない。(越喜来90代女性)

・いろんなことがありすぎて整理できてませんが、あまり不満ばかりではないと思っております。感謝のひと言に尽きると思っております。未曾有の震災もコロナも、自分にできること、まわりを思いやることを心がけて乗り越えられると思います。この10年で感じたこと、教えられたことです。(高田80代女性)

・震災の前と比べて元通りになったのか、それとも進んだのか、まったく分からない。(綾里50代男性)

・たくさんの人に支えられ、いままで生活してこられました。当時を思い出せば、いまの悩みは幸せな悩みなのかもしれないと思います。(盛40代女性) 

・仮設生活5年。新居で5年。あー10年になるなあと、後どれだけ…頑張れるかなあ、と思いながら生活しています。(米崎70代女性) 

・10年は早い。家族を亡くした思いは日増しに強くなり、自分が老いていくのがこわい。たださみしいだけ。(高田70代女性)

・避難所~仮設住宅~新築。苦労をしました。(気仙70代男性)

・自分がどこにいても、その時、その時の防災意識は持ち続けたいと思う。(赤崎60代女性)

・被災した自分からみれば、昨日があって今日があり明日があるので、特に思いはない。一日一日の積み重ね。ただ、過去を振り返る一つの区切りにはなるかもしれない。(気仙50代女性)

・何年たっても家族を亡くした喪失感、悲しみは癒えることはありません。どれだけあの震災前の普通の日常が大切だったのかと思います。(高田60代男性)

・復興中は大船渡が変わるかもしれないと希望を持ったが、落ち着くところに落ち着いてしまった感がある。教訓として記憶に残すべきだが、必要以上に震災を振り返るのをやめて先の先を考えるべき。(越喜来30代男性)

・六十数年生きてきて一番波乱の10年でした。いま、津波の心配をしなくてもよい所で生活できて一安心ですが、これからコロナが早く終息して子どもや孫にいつでも会える時代になってほしいと思っています。(猪川60代女性)

・岩手で、気仙で生まれ育った人間として、震災で大切な家族を失った一人として、自分自身が経験したことや得られた教訓などを、使命感をもって伝えていきたい。(高田40代男性)

・あっという間の10年だった。これからは働く場を増やし、多くの人を呼び込んでほしい。(広田20代男性)

・震災当時、高田高校の1年生でした。大学卒業後、仙台にいたのですが、地元へ戻ってきて働いています。どんどん進む復興を目の前でずっとこの先見ていたい。(末崎20代女性)

・まだまだこれから。(気仙30代女性)

・妻と娘2人を亡くしましたが、1人残った息子が立派に大学へ進学したことが自分のなぐさみです。(高田50代男性)

・お互いに助け合う精神を持ち続けることが大事だと思います。(赤崎60代男性)