気仙文化 歴史研究会が吉田家文書で「正史」確認 初代大肝入は筑後政義 上有住・根岸当主から登用

▲ 膨大な吉田家文書から確認した甘竹会長=盛岡市・県立図書館

筑後政義が命じられたことが分かる文書(マイクロフィルムから甘竹会長が複写したもの)

 気仙歴史文化研究会(甘竹勝郎会長)はこのほど、盛岡市の県立図書館に所蔵されている吉田家文書のマイクロフィルムから、藩政期を通じて気仙郡政の中心的な役割を果たした「吉田大肝入」の初代が、住田町上有住字根岸で屋号「根岸」の当主だった筑後政義であるとの記述を確認した。同会にとっては、地道な探索によって「史実」に触れた大きな成果となる。東日本大震災で吉田家住宅は被災し、復旧の動きが進む中、統治に至るまでの経緯や、さらなる気仙の歴史解明などに意欲を示す。

 

 同研究会によると、筑後政義に関する記述は、吉田家文書のうち「御墨印御詠歌並御賞御書附写」にある。東北歴史博物館で昭和54年にマイクロフィルム化されたものという。
 この中に「元和6年(1620)12月3日、仙台藩主伊達政宗より、吉田宇右衛門が気仙郡大肝入に任ぜられ、以後代々、その職を奉仕する」といった内容が記されている。吉田宇右衛門は後に、吉田筑後政義と名乗るようになる。
 筑後政義は、関ケ原の戦い(1600年)で敗れた西軍の将・小西行長の子で、各地を転々として下有住中清水に居を構えた。上有住根岸に移住後は、庄屋として地域の統治役を果たしていた。
 数年間は根岸から出張勤務をしたのち、陸前高田市気仙町の今泉に移住。根岸の邸宅には、次男の彌治右衛門がとどまった。
 根岸の住宅で今も残るのは、明治13年に建築されたもの。旧家は近隣の根岸地内にあったが、学制発布後に土地と住まいを提供し、明治6年に上有住小学校となった。14代目にあたるサダさんは、平成22年に93歳で死去。以降は、定期的に娘が管理にあたる。
 初代大肝入が筑後政義であることは、陸前高田市史や住田町史にも記載されているが、吉田家文書が膨大な量に及ぶ中、具体的にどの部分にあるかは明らかになっていなかった。甘竹会長(77)は数年前から、宮城県公文書館や東北歴史博物館などに相談しながらマイクロフィルムの所蔵場所を探り、何度も県立図書館に通って膨大な文書の中から〝ルーツ〟にたどりついた。
 筑後政義は「月よみ」に長け、安定的な農業生産などを通じて、大肝入になる前は根岸を統治していたとされる。戦乱から藩政に落ち着くまでの間、武力誇示から文治政治へと移り変わる中で、筑後政義が重用されていく流れなどへの関心も高い。同研究会では、「正史」「史実」を一つずつ確認することで、さらなる歴史解明の広がりに期待を込める。
 大肝入の歴史を受け継ぎ、県の有形文化財に指定されている旧吉田家住宅は、東日本大震災で主屋や土蔵、納屋など1軒4棟すべてが全壊。被災した部材の残存率を踏まえ、復旧は主屋のみとし、県指定有形文化財の名称に「主屋」が加わった。
 これまで、回収部材の加工などを進め、本年度は基礎工事着手が見込まれる。気仙大工・左官の優れた建築技法の発信だけでなく、歴史や文化継承にも関心が高まる。
 甘竹会長は「大庄屋の〝原点〟の証しは津波に流されず、資料として残されている。正史がしっかりと伝わっていくことが、私たちの望み」と話している。