復興再点検⑤/震災が生んだつながり 移住者たち 気仙への思い㊦

▲ 木造仮設が縁で出会い、住田で生活を送る田畑さん夫妻

 木造の応急仮設住宅建設を柱とする被災地の後方支援で、全国に名を知らしめた住田町。田畑耕太郎さん(32)=秋田県出身=と美希子さん(42)=神奈川県出身=の夫妻は、この「木造仮設」の取り組みで同町を知り、今は町民として暮らす。
 平成26年夏。当時、東京大学大学院で建築分野を学んでいた耕太郎さんは、東京大学とアメリカ・マサチューセッツ工科大学による建築グループの一員として、下有住の中上仮設住宅団地を訪問。同団地でのあずまやづくりなどの活動に携わるうち、住田の人や風土の魅力に触れ、翌27年には町職員となって移住。木造仮設での生活も経験した。
 「住田の人たちが信頼してくれたから、受け入れてもらえたのだと思う。その信頼に応えていきたい」と、学びを重ねた分野で力を尽くす。
 美希子さんは、東京工業大学大学院時代の先輩が立ち上げたコミュニティー支援団体「邑サポート」の活動に参加。何度も足を運び、耕太郎さんが加わっていた建築グループと中上仮設、町役場をつなぐ役割も担った。「住田の魅力的な人たちがいなければ、これほど通うことはなかったかもしれない」と振り返る。
 2人は平成30年に入籍。東京のマーケティング会社に勤める美希子さんは岩手と東京の〝2地域居住〟を送ってきたが、勤め先が今年6月に開設した「住田オフィス」の責任者に就任したのを機に、現在は住田に拠点を置く。
 耕太郎さんは在学中、ODA(政府開発援助)の事業に多く携わる設計事務所への就職を描き、海外にも足を運んできた。「いろんな世界を知る〝入り口〟が、住田にもあっていいと思う」と話す。

移住者たちが原動力となって開催した「三陸花火大会」(昨年10月)

 神奈川県出身で、一昨年末に陸前高田市に移住した浅間勝洋さん(40)。震災後、ボランティアとして被災3県で活動し、プロカメラマンによる写真撮影を通じて住民を笑顔にしようという取り組みなどを展開した。
 陸前高田は父親の出身地。「幼いころ来ていたと思うが、覚えていない」というが、ゆかりある土地だ。足しげく通って活動するうち、多くの市民と知り合い、新たな仲間も増えていった。「東北全体を盛り上げるプレーヤーになりたい」という夢をかなえる場所は「ここしかない」と、妻と子ども2人を神奈川に残して単身移り住んだ。
 市から「観光2次・3次交通分野」の地域おこし協力隊員として委嘱され、電気自動車のレンタカー事業に取り組むほか、「ホヤパウダー」の商品化にも奔走。
 さらには、観光振興や交流人口拡大を目的に、全国の花火業者が同市を会場に競う「三陸花火競技大会」を有志とともに企画。実行委員長として、昨年10月にはプレイベントの「三陸花火大会」を開き、1万発以上の大輪を陸前高田の夜空に咲かせた。
 「さまざまな自治体と関わりを持ったが、陸前高田ほどチャレンジさせてもらえるまちは、ほかにない。一緒に挑戦してくれる仲間、応援してくれる地元の人が多く、行政も積極的。よそから来た立場としては、とてもうれしいこと。それがまちの一番の魅力だとも思う」と語る。
 陸前高田も復旧・復興事業は一段落し、少子高齢化や人口減少をはじめとする従前からの課題にも向き合ってまちづくりを進めていく段階に入った。「新しくなった公共施設を維持管理面などからネガティブにとらえる人もいるが、そうした施設があれば、イベントなどの『できること』が増え、人を呼び込んで魅力を発信するチャンスになる」と前向きだ。

 統計データから地方への人の流れの傾向を読み取ることは困難だとされるが、東日本大震災をきっかけとした動きが、ここ気仙では確かに見られる。震災前は3市町を深く知ることがなかった人々が、土地や人の魅力にふれて根を下ろし、地域の一員としてまちづくりにも携わっている。
 震災は未曾有(みぞう)の被害をもたらした一方で、人やものごとの新しいつながりも生んだ。多様な立場からの「ふるさと」への関わりは、人口減少をはじめとするあらがいがたい課題と向き合うためのヒントともなっていきそうだ。