復興再点検⑦/地縁 変化余儀なく 解散の町内会など

▲ 震災前の周辺の様子を伝える表示板。須崎の住民でつくる「しらせ会」の要望をもとに設置された

 東日本大震災は、さまざまな分野で被災地に急激な変化をもたらした。住民同士の交流をはじめとして多岐にわたる活動を担ってきた町内会など地縁組織の中には、解散を余儀なくされたところもある。住民たちは新たなコミュニティーでの生活を送る中で、碑の建立などを通じてかつてのよすがを残し、薄れゆく地縁のつながりを保とうと努めている。

 

つながり保つ動きも

 

 なりわいの再生をけん引する拠点にと、大船渡市大船渡町のかさ上げ地に整備された「キャッセン大船渡」エリア。ここの須崎川のほとりに、「大震災の前 ここに須崎 茶屋前 南町 浜町というかぐわしき四つの町ありき あの懐かしきよすがを この碑に映さん」と記された表示板が立つ。
 東日本大震災後に解散した須崎町内会の会員らでつくる「しらせ会」の要望をもとに、復興事業を請け負っていた建設共同企業事業体の協力で平成30年にできたものだ。
 高さ約80㌢のスチール製土台に埋め込まれた縦50㌢、横70㌢のプレートには震災前の周辺地図が配置され、震災後にできた施設や道路の位置を重ねてあり、かつての様子を思い浮かべられるようになっている。近くには須崎の交差点跡地を示す石碑も立った。
 須崎の大船渡駅につながる目抜き通りには、住居を兼ねた店舗が立ち並んでいた。昭和30年代には魚市場があり、各地からやってきた漁船員が飲食店に繰り出し、「大船渡の上海」と呼ばれるほどのにぎわいを見せた。市外から移り住んで商いを始めた人も多かった。
 しらせ会の5代目会長を務める千葉新郎さん(82)は幼少のころからここに住み続け、震災後は盛町に家を構えて暮らす。「一旗揚げようという人たちがやってきて、それまでなかった業種の店を開いていった。業種は多い時で100超。まさに自営業のまちだった」と述懐。その様を人種のるつぼたる香港に例えてみせ、「それでも町内会のまとまりはとても良かった。みんなの愛着が表示板や碑の要望につながった」と振り返る。
 しらせ会は、平成2年の南極観測船「しらせ」大船渡入港を機に地元有志で立ち上げ、当時100を超えた世帯のほとんどが加入。大型船入港時には手づくりの歓迎行事を催すなど、昨今は市を挙げて行われる客船入港時のもてなしの基礎ともなってきた。
 震災の津波で地域が壊滅的被害を受け、さらに住宅建築に制限を課す災害危険区域の指定もあり、住民の所在はちりぢりになった。町内会が解散した中で残ったしらせ会の名簿は「須崎の縁」をつなぎ、コロナ禍で激減するも、元住民が集う機会を設けるなどしている。
 「チリ(地震津波)でひどい被害を受けたあともとどまってきたが、また家が建ち、町内会も再開することはかなわなくなってしまった。それでも須崎を決して忘れることはない。みんなが同じ気持ちでいるのだと思う」と千葉さんは話す。
 住民の自治組織である町内会や地域公民館。東海新報社の調べでは、震災後、大船渡市では須崎を含め大船渡、末崎両町の6カ所が解散または隣接地域への統合によってなくなった。このほか、津波被害がなかった山あいの日頃市町で、人口減少を背景に1地域公民館が統合となっている。
 こうした地域では、碑の建立などを通じて地縁のよすがを残そうという動きがある一方、将来的にはかつての地域の姿を知る人がまったくいなくなってしまうことを懸念する声も聞かれる。期せずして失われた地域の姿をどう後世に語り継ぐか、一つのテーマが浮上している。