東日本大震災10年/念願の本堂再建祝う 津波で被災 気仙町・龍泉寺で落慶式(別写真あり)
令和3年10月26日付 1面

陸前高田市気仙町の高台で整備が進められていた曹洞宗今泉山・龍泉寺(江刺秀一住職)の本堂落慶式は24日、現地で開かれた。本堂を失い、多くの檀家が犠牲となった平成23年の東日本大震災から10年余り。同寺関係者が震災犠牲者を供養し、念願の本堂再建を祝い合った。
落慶法要には、導師を務めた普門寺(米崎町)の熊谷光洋住職をはじめ、同宗第九教区の福山康成教区長、高田地区曹洞宗各寺院の住職、龍泉寺の総代や世話人、本堂建設の関係者ら合わせて50人余りが出席。焼香などを行い、壇信徒各家の安泰や寺の興隆を願った。
本堂建設委員会代表の梅木力総代長(84)は「震災から10年7カ月。当山復興にあたり関係各位からご寄進、ご協力をいただいた」と感謝。
江刺住職は、平成26年に同寺を訪れた同宗大本山・永平寺(福井県)の福山諦法大禅師猊下から励ましの言葉を賜ったことなど震災後を振り返りながら、「夢にまでみた落慶式。たくさんの支援、仲間に恵まれたことは本当に幸せであり、恩返しをしていきたい」と語った。
式後は、壇信徒総供養も行われ、出席者らが故人をしのんだ。
再建された本堂は入母屋造りで、延べ床面積は事務所も含めて247平方㍍。建築材の一部や本堂内に設置される天蓋(てんがい)などは、壇信徒から寄進を受けた。本堂内には震災の津波襲来後に市内で見つかった鐘や祭壇も置かれた。
震災前に同寺本堂の補修を行っていた一関市の菅原木工が施工。境内敷地面積は2800平方㍍余りにおよび、整備には壇信徒からの篤志(とくし)金や各地からの義援金、土地区画整理事業に伴う財産処分で得られた資金を充てた。
江刺住職によると、龍泉寺は天正9年(1581)の開創とされ、普門寺の末寺にあたる。開創当時は矢作村にあり、山津波で被災後、現気仙町の垂井ケ沢へと移転。そのお堂も山津波で流失し、同町愛宕下に移転してからは、震災直前まで350年以上の歴史を刻んできた。
平成23年3月の震災では、気仙大工の技術の粋を集め造られた鐘楼堂や本堂などが全壊し、当時の総代長を含む140人近くの檀家が犠牲に。境内にあった、市指定天然記念物のヤマモミジも枯死した。
同年夏にプレハブの本堂で法要を再開し、28年12月には木造平屋の仮本堂が完成。翌29年4月に本設本堂の建設委員会が立ち上がり、令和元年から今年8月末にかけて、市土地区画整理事業により山を切り崩して整備された高台で建設が進められた。
被災モミジで制
作の本尊を安置

新しい本堂に配された、ヤマモミジで作られた本尊(中央)と脇侍
高台に新設された龍泉寺には、震災後に境内で枯死したヤマモミジを彫って作られた、本尊の釈迦如来や脇侍(わきじ)など6体を安置した。江刺住職は「何にも代えがたい〝寺宝〟。これからも地域を見守ってほしい」と願う。
震災前、同寺境内にあり、特徴的な傘形だったヤマモミジは「からかさもみじ」として地元住民に親しまれていた。樹齢は300年以上で、樹高は7㍍余りとされる。
大津波で塩害にあい、延命処置を試みるも枯死。その後伐採されたが、江刺住職は「なんとかこのヤマモミジを残したかった」とし、九州の仏師に本尊である釈迦如来の制作を依頼した。
28年に試作品が作られたあと、本堂に置く総丈90㌢の釈迦如来や、その左右に控える2体の脇侍など計6体が完成。釈迦如来は仮本堂で祭られたあと、今回の本堂新設に合わせて脇侍などとともに移動された。
江刺住職は、完成した木像を初めて見たとき、見る人の心を安らげる柔和な表情や、精巧な技術が光る装飾「光背」などに心奪われたという。「ヤマモミジはご本尊となって今後も生き続ける。津波で亡くなった方々の供養になると信じている」と語っていた。