静かなる節目を迎えて 大船渡市・三陸町合併20年 ─①─

▲ 今年春に完成した自宅前から越喜来の風景を見つめる及川さん

 三陸沿岸の拠点都市を目指して実現した大船渡市と三陸町の合併から、20年を迎えた。平成13年11月15日に誕生した人口約4万5000人の新生・大船渡市は、合併建設計画に盛り込んだ事業推進を着実に続けてきた一方、10年目の同23年3月に襲った東日本大震災で甚大な被害を受け、その後は復旧・復興施策に追われた。激動を経て、地域住民や市関係者は、節目にどのような感情を抱くのか。合併20年の今を、改めて考えたい。(随時掲載)


大きく変化を遂げても
震災が奪い去った「意識」

 

 節目の11月が、静かに過ぎ去ろうとしている。今月5日発行の市広報で特集ページが組まれたが、これまで記念式典や「20周年」を大々的に掲げる祝賀イベントはない。
 住民側にも、20年を意識し、待ち望んでいた雰囲気は、あまり感じられない。特別な感情を抱くことなく、普通の一日として流れゆく日々は、20年をかけて違和感なく一体化が進んだ証しと言える。
 ただ、10年前の平成23年11月も、目立った動きはなかった。新生・大船渡市へのスムーズな移行とともに、節目の意識が、東日本大震災によって消え去られてしまった。

 三陸町越喜来、三陸公民館から崎浜寄りに離れた県道沿いに今年春、2階建ての一軒家が完成した。普段、1人で暮らすのは、20年前の合併で三陸町議会議員から大船渡市議会議員となった及川彌さん(78)。県道越しに広がる防潮堤を見つめながら、静かな日々を過ごす。
 今年11月で、合併20年を迎えました──。記者が言葉を投げかけても、表情に大きな変化はなく、返ってくる言葉にも、間があった。
 「私の中では、震災。それが大きい。合併で、さまざまな行事や事業をやったんだろうが、それがすぱっとなくなった感じ」
 越喜来小を卒業後、仙台市内で暮らし、NTT職員として古里を離れていた時期が長かった。戻ってきたのは平成11年3月。三陸町商工会勤務後、間もなく、同町議選に出馬し、初当選を飾った。
 市議選には16年、20年に出馬し、いずれも定数を上回る選挙戦となったが、議席を守った。23年3月11日の午後2時46分は、市議会一般質問が行われていた議場で、大きな揺れを感じた。
 防潮堤のそばにあった自宅に戻った時に、大津波に襲われた。「防潮堤から波がドンと落ちてくる感じ。ナイアガラの滝のようだった」。勝手口から逃げようとした瞬間、津波にのまれた。浮いた冷蔵庫に身を預け、気づいた時には屋根の上にいた。流されずに残っていたマツの木に飛び移り、命をつないだ。

 東日本大震災で、かつての町役場だった三陸支所が被災。低地部にあった住宅や商店、福祉施設、小学校にも津波が押し寄せた。
 それから10年。小学校や福祉施設は、国道45号を挟んだ高台に整備され、海岸沿いには震災前よりもはるかに高い防潮堤が整備された。その周辺にはイチゴ栽培のハウスが並び、すっくと伸びるポプラの存在感が際立つ。
 ただ、20年前の合併直後から、着実に変化を続けていた。道路整備や三陸公民館の改修など、住民に身近な工事が進められた。
 それでも、及川さんは「たしかに、施策の規模が大きくなった。それは合併の効果もあったと思う。ただ、まち的には変わらなかった。『私の古里だ』という思いであり続けた。合併直後は、あまり大きくは変わったという実感はなかった」と語る。
 今は、どうか。「がらっと変わってしまった。私の古里はない、という感じ。海と山がそのままなだけで、あとはすっかり変わってしまった」と話す。
 市遺族会の一員でもあり、議員勇退後、父が戦死したニューギニアに出向いた。慰霊碑を前に、父を思い浮かべながら「盆に帰ってきても〝浦島太郎〟になってしまうよ。自分の家もないよ。戻ってくる時は、まだ残っている大きなケヤキを目印に来てください」と口にした。

 合併から20年というよりも、復旧・復興の10年という方が、スッと心に入ってきやすい。合併の記憶を奪い去るように、震災が発生し、それからの激動が住民の心に強く残り続ける。
 及川さんは「公営住宅から新しい家に引っ越しをしたのも、今年の4月。ちょうど10年という思いがあった。やはり、震災が自分の中では大きい」と話す。
 まちなみや住民生活、人々の交流と、あらゆるものを一変させた震災。合併後の一体感醸成がゆるやかに進んだ半面、めまぐるしい変化の日々でもあった。