東日本大震災10年/啄木歌碑 高田松原に戻る 震災で流失 津波復興祈念公園で除幕(別写真あり)
令和3年12月28日付 7面

岩手が誇る国民的歌人の歌碑が、東日本大震災を乗り越えて再び陸前高田市の名勝地に──。「石川啄木没後百年記念事業実行委」(嵯峨忠雄会長)が建立した啄木の歌碑が27日、全面開園した高田松原津波復興祈念公園で除幕された。高田松原にかつてあった碑は昭和35年のチリ地震津波と10年前の震災で2度流失し、平成25年、新たな碑を仮設置したが、復興工事のため一時撤去していた。ようやく本設に至った碑には、津波犠牲者を悼み、震災の教訓を伝承する同園の役割に意味が重なる啄木の歌が刻まれている。
全面供用受け本設
碑は川原川下流の「松原大橋」そばに位置する。除幕式には、実行委や碑の短歌を揮毫した啄木のひ孫で、会社員の石川真一さん(56)=東京都世田谷区=ら関係者約20人が出席した。
石川啄木記念館(盛岡市)元館長の菅原壽さん(76)=滝沢市=が会長あいさつを代読。実行委名誉会長の谷藤裕明盛岡市長が「啄木がつなぐ盛岡市と陸前高田市との礎の一つとなることを願う」と述べ、戸羽太市長は「陸前高田の復興を歌碑とともに見守っていくという内陸の思いに感謝、感謝です」と謝意を示した。
実行委によると、啄木は盛岡中学(現・盛岡第一高)在学時の明治33年7月、修学旅行で高田松原を訪ね、氷上山登山も楽しんだという。
この縁から昭和33年、高田松原に歌碑が建てられたが、2年後のチリ地震津波で流失。41年、新たな碑が啄木と同郷で、親友として知られる言語学者・金田一京助氏の揮毫で建立された。長年、市民らに親しまれたものの、東日本大震災で再び流された。
同実行委は、没後100年の啄木を顕彰する事業の一つとして、碑の再建を決め、平成25年、震災遺構・タピック45(旧道の駅高田松原)駐車場に仮設置。津波復興祈念公園の整備に伴い一時撤去し、同園の全面利用開始を受け、仮保管していた碑を移設した。
大きさは、幅2・2㍍、高さ1・8㍍、奥行き50㌢、重さは約4㌧。石材は、啄木がこよなく愛したという古里の姫神山で採られた「姫神小桜石」を使用した。
刻まれた歌は、処女歌集『一握の砂』に収められている「頬につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず」。句末に「人を忘れず」とあり、実行委が津波犠牲者や震災の教訓、被災地を忘れず、復興への強い決意を込めて歌集から選んだ。
除幕式に出席した真一さんは「初めて陸前高田市を訪れ、改めて被害の大きさを感じた。被災地はまだ復興への道半ば。歌碑にある『忘れず』という言葉を大事にしたいし、被災者の心の癒やしにつながってほしい」と願いを込めた。