■歴史探訪特別企画第5号/気仙の金山と大河ドラマ<3> 気仙歴史文化研究会会長 甘竹勝郎

▲ 広島県廿日市市の宮島桟橋前広場に設置されている平清盛像

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義時に渡された砂金

 前回述べました通り、平泉と気仙は砂金を通じて深い結びつきがありました。今年の大河ドラマではすでに、奥州からも産出された砂金に関する映像が映し出されております。それは2月20日に放送されたもので、関東武士団で屈強とされ、現在の千葉県の房総半島を支配していた上総広常から、主人公の北条義時に砂金が渡されるシーンがありました。
 あのシーンで義時が発した言葉は「この砂金は奥州・平泉からのものですね」との大意でしたが、気仙人の私としてはこの時、「この砂金は奥州・気仙の砂金ですね」と言ってほしかった。
 しかし、心配はご無用です。「気仙が砂金の一大産地」だったことが明確に証明されております。

 

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平氏と源氏の対立

 

 平安時代は朝廷政治の絶頂期でもありました。しかし、貴族同士の対立が激化し、政権の維持や組織、または自分自身の身を守る必要から武力を持つ「武士」が必要となりました。
 その武士団の二大勢力が平氏と源氏であり、両者の影響力は全国に及んでいきました。平氏も源氏も共に天皇を守るために共闘した時もありますが、朝廷内のいざこざの時に両者が激突し、平氏が勝利し、源氏が敗北したのでした。この戦いが起きたのが平治元(1

159)年でしたので、「平治の乱」といわれています。

 

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平氏に砂金を献上

 

 平治の乱に勝利した平氏の大将は平清盛であります。
 敗北した源氏の大将は殺害されましたが、その子どもの源頼朝は京都から遠い関東の伊豆に流され、弟の義経は京都の鞍馬山に預けられますが、やがて、義経は奥州(東北)平泉に身を寄せるのでした。

 清盛は源氏を破り、その子どもたちも遠くに追放しましたので、もう戦う相手はなく、わが世の春を満喫し、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われたほどに思うがままの政治を行ったとされています。
 その一端として、自らの地位を盤石にするために、平清盛は妹や娘を皇室に嫁がせ、朝廷内での権威も強め、自分の外孫を天皇に即位させるなど自由自在でしたし、全国の土地の多くを平氏の私有地となる荘園としています。この時に気仙地方も平氏が管理する土地になったとされており、気仙の金山で採取された砂金の多くが平氏に献上されたといわれます。
 さらに、清盛は宋(中国)との貿易にも力を注ぎ、瀬戸内海航路の整備を進め、巨万の利益を得ております。その日宋貿易では奥州

からの砂金や、伊勢志摩の真珠なども輸出品となっていました。