「七日日」の「茶幡」 脈々と受け継がれる気仙の習わし 各地で月遅れ盆の準備始まる(別写真あり)

▲ 円城寺の榊原住職㊨が新盆の法要後、五色の「茶幡」を遺族に手渡した

 8月に入り、気仙各地で月遅れ盆の準備が始まっている。陸前高田市内には新盆(初盆)を迎える家での「茶幡」の伝統が残る地域も。旧暦7月7日(現在では新暦8月7日)の「七日日」に旗を立て、その家に新仏があることを示すもので、江戸時代にはすでに行われていたとされる。現代になり様式は簡略化されたが、亡き人を初めて迎えるための目印として、寺院などでは大切に受け継がれている。(鈴木英里)

 

 気仙地方では8月7日、過去1年で亡くなった人のある家へ、親類や近隣の人がお参りに行く習わしがある。地域によってはこれを「オチャダテ(お茶立て)」と呼ぶが、その由来は、かつて新盆を迎える家庭が庭に「茶幡」を立て、お参りの人にお茶などを振る舞ったからとされる。
 茶幡は、読経してもらったものを寺から受ける。同市矢作町にある円城寺(榊原貴晶住職)でも古くから、白、赤、黄、緑、紫の五色の紙でできた旗に「茶幡供養者為新盆精霊」と筆で書き入れたものを用意。今では8月1日の新盆法要の際、遺族に手渡している。
 江戸時代の紀行家・菅江真澄(1754~1829)も、同市を天明6(1786)年旧暦7月に訪れた際の記録に「茶幡」のことを書き残した。菅江は7月6日に「笹の田といへる崎をこへて気仙郡矢作の庄に至り」、7日に「このとし人の身まかりたる家は、茶幡といひて、五色の紙に、仏のみな(御名)、実り(御法)のこと葉を書て、軒にかけて、人々通るを呼て、ものくはせ、茶のませける」――この年に亡くなった人のある家は、茶幡を軒につるして、通りがかる人に何か食べさせたりお茶を飲ませた…と記している。
 陸前高田市史によると、藩政末期の気仙では、白米や大豆をいった菓子とともに、家の前を通る人に茶を振る舞ったとする記録があるという。一方、安政2(1855)年の『目抜館文書』には、「強飯、赤飯なども用意して『茶立て』をしていたが、あまりにもそれが派手に行われるため、一切禁止された」という旨の一文が残る。
 現在、茶幡は軒先ではなく仏壇に飾られ、送り盆の時に一緒に送る風習になっている。榊原住職は「ごちそうを用意してお供えするのが施餓鬼の始まりであり、お参りの方たちに飲ませ食わせするのはお盆の追善供養でもあった。今は通りかかる人にまでお茶やお菓子を振る舞ったりはしないが、仏様の教えを伝える上でも残したいと思う大切な行事だ」と話していた。