2023陸前高田市長選/立候補者の横顔

 任期満了に伴う陸前高田市長選は、4選を目指す現職・戸羽太氏(58)=高田町、無所属=と、元農林水産省職員の新人・佐々木拓氏(59)=広田町、同=が、5日(日)の投開票に向け、舌戦を展開している。両氏の横顔を紹介する。(右から届け出順)

 

市政の集大成 思い強く

戸羽 太さん(58)無・現

 

 陸前高田市の死者・行方不明者は1757人(県などのまとめ)。まちは壊滅的状況となり、自身の家族も亡くし

た東日本大震災。絶望の底で明るい未来を信じ、12年間、まちづくりをけん引してきた。被災地の首長として全国から注目を集める中、市民のため、まちのため、がむしゃらに駆け抜けてきた。
 好きな言葉は「みんなちがって、みんないい」。童謡詩人・金子みすゞの代表作の一節だ。自身が掲げたまちづくりの理念「ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくり」の考え方にも通ずる。
 「ノーマライゼーション…」は、性別や年齢、障害の有無などあらゆる垣根を越え、誰もが生き生きと暮らし、活躍できるまちを目指そうと提唱。震災からの復旧・復興に追われながらも、他自治体との差別化を意識して打ち出したが、市民や議会から「抽象的で分かりづらい」と言われ続けてきた。
 それでもさまざまな場面で思いを伝え、理解の輪を広げる努力を惜しまなかった。障害者の活躍の場も増やした。

令和元年には世界共通の「SDGs(持続可能な開発目標)」の「誰一人取り残さない」という理念と合致しているとして、国のSDGs未来都市に県内自治体第1号で選定された。
 昨年秋には「ノーマライゼーション…」の青写真を市民と共有する大イベントを呼び込んだ。全国の障害者が集い、交流する「きょうされん全国大会」。陸前高田市で2日間開催し、約1400人が参加した。
 大会実行委員長を務め、シンポジウムなどで障害者らに防災・減災の大切さを説いた。大会のフィナーレでは障害者らが歌うステージに一緒に立ち、ギターを演奏。「最後は音楽で一体となり良かった」と喜ぶ。
 県議を3期務めた故・一男氏の次男として、神奈川県で生まれた。
 「永ちゃん」こと、ロックスター・矢沢永吉さんの大ファン。「永ちゃんが行ったから自分も」と、二十歳ごろの数年間、米国で生活した。
 その際、弱者とみられがちな障害者が当たり前のようにまちへ繰り出し、酒を飲んだり、スポーツを楽しむ光景を目にして衝撃を受けた。「なんて素晴らしいんだろうと思った」。ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくりを生み出す原点となった。
 震災で妻を亡くし、発災当時小学生だった息子2人のため、日夜の公務に臨みながら家事もこなした。ともに成人し、「家では何もしなくて良くなって本当に楽になった」と肩の荷を下ろす一方で、「息子たちの部活の練習試合を追いかけるのがすごく楽しかったが、それもなくなった」と寂しがる。現在は再婚した妻・麻莉子さん(40)、保育士の次男(22)との3人暮らしで、会社員の長男(24)は東京で暮らす。
 趣味は音楽やスポーツ観戦で、このごろは庭いじりにはまりだした。ブラックベリーやブルーベリーを植え、「いろいろ試しながら産業化できないかとか、ひそかに考えてるんです」と、余暇を過ごしているときでも、まちおこしのアイデアがよぎる。
 昨年末までにインフラ復旧が完了し、基盤は整った。「まちづくりのプレーヤーが増えた。観光客も年間100万人に達した。これからなんだ」とうなずく。自宅で庭いじりにいそしむ前から、市全体に地道にまいてきた〝復興の種〟がやっと花開いてきた。「4期目は集大成。みんなが活躍できるまちを目指し、全身全霊をかける」と誓う。

 

確固たる地元愛 胸に
佐々木拓さん(59)無・新

 

 「生まれ育った陸前高田を輝くまちにする」。強い決意で市長選に初挑戦した。昭和62年に農林水産省に入省。ロシアに拿捕された漁船の引き渡しなど、日露漁業交渉に16年携わった交渉のプロだ。
 広田町出身。遠洋漁業を営み、一家の跡継ぎが「佐々木大三郎」を襲名する「佐大商店」で生まれた浜どこの〝サラブレッド〟。第3代大三郎の曽祖父は旧広田村長、第4代の祖父は市議会の議長、第5代の叔父は市議を務めた。
 家業は定置網漁も手掛け、小学生時代に漁船に乗り込み、大謀の隣で網起こしを手伝ったことも。「大謀は博学で、かっこいい存在だった。陸に上がれば酒ばかり飲んでいるのに、船に乗るとスーパーマンみたいだった」。海の男に憧れを抱きながら育った。
 そんな広田小時代、アワビ漁の手伝いに出ても成果はゼロ。「同級生は1日で10㌔くらい取っていた。これは勝てないなと、漁業の道を諦めた」。その分力を入れた勉強は、負け知らず。小中学生の時は児童会や生徒会の会長を務め、同級生からも教員からも厚い信頼を寄せられた。
 広田小・中時代は野球、高田高時代はサッカーに打ち込んだ。「坊主頭が嫌でサッカー部に入ったのに、OBとの試合で負けると丸刈りにするという伝統があって結局坊主頭。それなら帽子をかぶる野球部の方が良かったなと」と笑う。
 農水省での職歴36年のうち、およそ半分の期間ロシアに関わる仕事を担当。ソ連崩壊時もモスクワに出張していた。
 出向先の石川県庁で、農林水産部次長として働いていた時に東日本大震災が発生。異動願いを出し続けても東北にある出先機関などへの着任はかなわず、直接、古里の力になれない歯がゆさを味わった。
 約40年間、古里を離れたが、「大工や船乗りの出稼ぎのような感覚。あくまで陸前高田がホーム」と〝陸前高田愛〟は揺るがない。盆や正月に帰省し、同級生と酒を酌み交わして近況を語らうのが何よりの息抜きだった。
 気がかりだったのは、同級生などから聞くまちの将来への憂い。「人がどんどん減ってしまい、このまちは本当に大丈夫なのだろうかと思った。自分の経験をこのまちに還元できないかと考えていた」。思いは確かなものとなり、市長選へのトライを決めた。
 打ち出した公約は「大学誘致」「農林水産業の生産額倍増」「雇用1000人創出」など。「自分で言うのも何だが、私はうそをつく人間ではない。必ず成し遂げる」と言い切る。
 自身を「温厚な性格」と分析する。妻・恵里子さん(57)と大学院生の長男(24)は東京都八王子市で暮らし、次男(19)は山形県内の大学に通う。
 30代で始めたマラソンとスポーツ観戦が趣味。プロ野球は小学生の時からの阪神ファンで、「関西人の歯に衣着せぬ物言いとかがワクワクして」と〝虎党〟の一面をのぞかせる。
 小学校の運動会の徒競走で1等賞を取れなかった悔しさから、足が速くなりたい一心で中学1、2年の2年間、新聞配達のアルバイトをした。持ち前の芯の強さを発揮し、3年生の時には徒競走で1位となって目標を達成した。
 次なる目標は、まちのリーダーを決める選挙での〝1等賞〟だ。「36年間の行政経験、人脈をフルに使い、私のすべてをかける。どうか私に陸前高田の未来を託してほしい」。霞ヶ関での激務とマラソンで鍛えた体力を生かし、勝利を目指してひた走る。