■東日本大震災12年/〝似た親子〟 面影重ね 震災で長男亡くした菅野さん 悲しみ分かつ夫も逝き

▲ 孫たちの写真を眺める菅野まき子さん。夫・征一郎さん㊧と長男・裕行さん㊥の遺影に毎日話しかける。裕行さんから贈られた犬のバスケットは今もダイニングに

 事故と震災で、2人の子どもを失った陸前高田市矢作町の菅野まき子さん(74)。郵便局員だった長男・裕行さん(当時37)は、東日本大震災発生時、高田町内の職場に勤務していて犠牲となった。子を失った悲しみを分かち合い、支え合ってきた夫・征一郎さんも、昨年、病を得て80歳で亡くなった。生前、「似ている」とはあまり感じたことのなかった夫と息子。だが2人の遺影を並べて見た人は「よく似ているね」と口にする。お互いを静かに思いやり合っていた親子の姿を思い浮かべ、「そうだったのかな」と話すまき子さん。大切な家族をなくした傷は時間がたっても癒えることはないが、毎日「いつも見守ってくれてありがとう」と仏壇に向かって話しかけ、その存在をかみしめる。   (鈴木英里)

 平成23年3月11日の朝、車で出勤する裕行さんを外へ出て見送ったまき子さん。裕行さんはその時、ふと振り返ったようだったという。「珍しいな」と思ったからよく覚えている。それが最後に見た長男の姿だった。
 征一郎さんは震災発生時、生出地区コミュニティ推進協議会の役員だった。地区内で炊き出ししたおにぎりや物資を高田町内まで届けるなど、あわただしかった。
 裕行さんが戻らないのも、「きっとまちで人助けでもしているんだろう」と言っていた征一郎さんを促し、夫妻は発災3日目ごろから高田町内で消息を訪ね歩いた。
 「裕行君が矢作中の体育館にいる」。知人にそう教えられたのは3月19日のこと。高田町ではなく、自宅近くの旧矢作中――遺体安置所となっていた体育館へ足を運び、無言の対面を果たした。
 まき子さんは同市小友町出身。小学6年生の時にチリ地震津波(昭和35年)を目の前で見ていた。
 しかし、内陸部の生出に嫁ぎ、子どもたちを育てた。「津波の話とか、地震が来たら逃げろとか、教えたことはなかったな」。後悔が胸を刺す。
 夫妻は昭和52年にも、当時1歳の長女を川の事故で亡くしている。「なぜ生きているうちに〝1000年に1度〟なんて津波が来て、息子まで奪っていってしまうのか」。三回忌まで、まき子さんは毎日泣いた。だが征一郎さんは黙々と避難所の世話などにあたっていた。気を紛らわせるためだったのか。いずれ、責任感が強く、目の前の困っている人たちを放っておけるタイプではなかった。
 裕行さんも内に優しさを秘めた人だった。母の日には毎年カーネーションを贈ってくれていたが、震災の前年、「枯れないから」とプレゼントされた造花の犬は、形見となった。
 征一郎さんの還暦祝いには、仙台まで行ってすしと赤いベストを買ってきた。「ちゃんちゃんこ代わりだったのかしら」。だが、赤は征一郎さんが一番好きな色。父と同じ郵便局の仕事を選んだのも、親の勧めではなく、裕行さんの意志だった。交わす言葉は少なくとも、〝親の背中〟をちゃんと見ていたのだ。
 裕行さんの命日に墓参りへ行くと、先に花が供えられていることがある。地域の顔役として、亡くなってからも慕われ続ける征一郎さんと同様、友人が多かった。生前は似たところのない親子と思っていたが、まじめで、人好きするところは共通する。
 裕行さんの愛車は昨年、征一郎さんのものと併せて処分した。だが自室は今も手つかず。部屋に入れば息子の存在がありありと思い出せるから――そのうえで、「まあ、忘れたこともないけれど」と、まき子さんは小さく付け足す。
 一人きりになった家で、「みんないなくなってしまったな」と考える。東京で暮らす次男夫婦と3人の孫の存在が大きな癒やしであり、支えだ。
 毎朝、仏壇に話しかけている。3番目の孫、優斗君は昨年8月生まれ。征一郎さんは会うことがかなわなかった。送られてくる写真を見せて成長を報告する。
 出かける時は「行ってくるよ」「無事に帰ってきました」と声をかけることも欠かさない。「お願いしてばかりじゃだめだと聞くから、『見守ってくれてありがとう、これからも見ていてね』って」。消えない寂しさを胸にほほ笑むまき子さんだ。