■東日本大震災12年/ポスト復興への指針─気仙3首長に聞く㊤
令和5年3月11日付 4面
東日本大震災の発生から、きょう11日で丸12年を迎えた。復旧・復興事業がほぼ完了した被災地では、中心市街地やなりわいの再生が進んでいるが、復興後のまちづくりに向けては、少子高齢化に伴う人口減少や新型コロナウイルス禍の長期化などによる経済の低迷など、さまざまな障壁が立ちふさがる。震災からの復興や後方支援をけん引してきた震災当時の気仙3市町の首長はいずれも交代し、新たな顔ぶれとなった。これからの気仙の指針を、「ポスト復興」を担っていく渕上清大船渡市長、佐々木拓陸前高田市長、神田謙一住田町長に聞いた。
「まちの〝核〟どう生かすか」…渕 上氏
「人や企業の呼び込みに注力」…佐々木氏
「人と人のつながりが 財 産 」…神 田氏
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発災時の動き
──平成23年3月11日、3首長はそれぞれ今とは違った立場で東日本大震災に直面した。その時、何を思い、どのような行動をとったか。
渕上 当日は市議会定例会の一般質問2日目だったと思う。大きな揺れがあり、議会が延会となったあと、議員それぞれが、それぞれの地域で活動に当たった。議会としては当時、大規模災害時の対応に決められたものはなかった。私も地元を回り、「とにかく避難を」と声かけをして公民館や小学校に誘導した。
阪神淡路大震災でボランティアに行った際、停電による「暗闇の恐怖」というものを体験していた。そこで、リース会社から大きな発電機と照明を借り、盛小学校や地域公民館に置いた。恐怖を和らげるためには明かりが必要なのだという阪神淡路での教訓があったから、そういった行動を取ることができたと思う。
佐々木 当時は石川県庁に出向しており、金沢市にいた。金沢市に大きな被害はなかったが、テレビで大船渡市に津波が押し寄せる映像を見て、大変なことになっていると感じた。
私の地元の広田町は明治、昭和の大津波でも被害を受け、明治の時は私の本家でも曽祖父を除くほとんどの家族が亡くなった。発災当日の夜になり、ラジオなどで陸前高田の被害が深刻ということが分かり、いくつかのまちが壊滅状態という情報もあったので、両親ら家族の安否がとても心配だった。とにかく家族のことしか頭になく、何をしたらいいか分からない状態だった。
神田 当時はブロイラーの会社の役員をしていた。220~230人いた従業員、関連する生産農家や関連企業はどうなっているか、現場をまず確認しなければいけないと思った。車で現場を回りながら、「これは大変なことだ。仕事がすぐ立ち上がることにならない。従業員や生産者の生活をどうしたらいいか」と考えていた。
私の妻は看護師で釜石病院に勤めていた。あの日は夜勤明けで自宅に帰ってきているはずだったが、戻ってみると妻はいなかった。もしかしたら釜石市内で被災したのではないかと思ったが、まずは現場を確認し、会社の立ち上げのために何をやったらいいのかを考え、かけずり回った。

渕上清大船渡市長 平成22年~令和3年、市議会議員通算4期。同2~3年、同市議会議長。令和4年、大船渡市長に就任。64歳。
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防災面での連携
──東日本大震災では、近隣市町との連携の重要性が再認識された。いつ起きるか分からない災害への備えとして、防災面での3市町の連携のあり方をどのように考えているか。
渕上 防災分野で3市町は、それぞれの機能や役割を分担しやすいと思う。一例として海手側、山手側という立地を生かして役割を分担することでマンパワーが集約、発揮され、防災機能が強化されるのではないか。海側で何か災害があった場合は、住田を拠点として放射型に支援を展開できる。逆の場合も同様だ。
気仙というくくりで、よりコンパクトに連携できることはいろいろあるだろう。例えば、妊産婦、子育て世帯、高齢者の避難は市内だけでは限界がある。大船渡が有事の際には住田に受け入れをお願いするなど、連携を強化することによって災害弱者といわれる人たちを支援できる。
佐々木 日ごろの訓練や情報交換、啓発活動などでは連携が必要だと思う。地震や津波だけではなく、近年は大雨による水害も多くなっている。足りない備蓄品を広域で補い合うなど、できることから補完機能を整備していくことを考えたい。
神田 住田町は地理的に内陸と海の中間で、「ハブ」的な位置付けになっている。そういう利点を生かした形の中で連携を取っていくべきだと思っている。気仙は普段から人的交流があり、人と人とのつながりを持っている。一つの自治体で完結するものではない災害対応では人の連携が必要。その生かし方、工夫できるところを渕上市長、佐々木市長と相談しながら、しっかりと備えていきたい。
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復興事業への評価

佐々木拓陸前高田市長 昭和62年、農林水産省に入省。在ロシア日本大使館一等書記官、水産庁漁政部参事官などを歴任。令和5年、陸前高田市長就任。59歳。
——発災から12年間の復旧・復興事業や中心市街地におけるまちづくりをどう評価しているか。また、今後の課題をどのように捉えているか。
佐々木 これまで復興事業が進められ、ハードの面では山場を越えた。多くのご支援や市民、市の職員の努力により、あれだけの壊滅的な被害からここまで復興したというのは素晴らしいこと。この復興したまちにどうやって人を呼び込むか、企業を呼び込むか、人を増やしていくかがこれからの仕事だと思っており、注力したい。
渕上 大船渡の場合、市役所は高台にあって無事だったが、職員には家族を亡くしたり、被災した人もいた。先の見えない中での復興事業には大変なご苦労があったと思うが、着実に進めてもらい、今の形になった。
中心市街地はキャッセンを核として街区形成された。災害公営住宅も適正戸数で整備され、防災集団移転促進事業では、「差し込み型」で集団移転の進展を図るなど大船渡らしさが出た。
しっかりとしたまちの核ができたので、今後はそれをどう生かしていくかが課題。本当の意味での中心市街地とするためにも、持続性のある集客、なりわいというものを時代に合った形で実現していかなければならない。
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後方支援の成果

神田謙一住田町長 昭和59年に住田町農協に入り、合併した陸前高田市農協を経て、平成19年に住田フーズ㈱取締役生産部長、24年に同社常務取締役就任。29年に町長選初当選、現在2期目。64歳。
──住田町は発災直後に独自の木造仮設住宅を建設するなど、後方支援地として全国的に注目を集めた。その取り組みの成果は。
神田 木造仮設住宅というハード部分に注目いただいたが、実はもっと大事なことがあると思っている。
仮設住宅には陸前高田や大船渡、大槌から入られた方がいたが、その人間関係やコミュニティーの形成、被災して入居した皆さんをどうやって元気づけるかという部分などに住田の住民が深く関わった。県外から応援に来てくれる方々とのコミュニティーも形成され、今でもつながりがある。人と人のつながりが町の大きな財産になったと思う。
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今後の課題
──大船渡、陸前高田両市では生産基盤である漁港や農地の復旧が完了し、震災前を上回る機能性が確保された。一方で、近年は主力魚種の不漁、農林業も含めた担い手不足など、震災以前からの課題がより深刻化している。これらについての現状認識、課題解決に向けた今後の施策は。
渕上 漁港等は早いスピードで整備していただいたが、主力魚種が不漁となっている。市としては、平成26年から国に水産資源の確保など水産業の持続的な発展を要望してきたが、不漁については自然界のことであるので、見通すことが難しい。
農業においては震災後、被災跡地利用による農業生産が行われている。これはもっと伸びると期待しているが、なりわいとしてしっかりと成り立つまでには時間がかかる。担い手確保に向けては、所得の安定化や住居確保など生活全般の支援が必要と考えており、そこに力を入れていきたい。
佐々木 陸前高田では漁協がサケの定置網漁を行っているが、こんなに不漁だったのは五十数年の歴史でも初めて。4年後、5年後に帰ってくるサケの稚魚を放流するための卵の確保も重要で、いろんなところから移入しなければならない。早期の原因究明と漁況の回復を待っている。
一方で、陸前高田のカキやワカメ、ホタテなどは全国的にみても最高級のブランド品として知られている。若い漁業経営者もいるので、決して悲観はしていない。これらのブランド品をふるさと納税などでPRしていきたい。農業では「たかたのゆめ」というブランド米がある。林業もお隣の住田町に負けないぐらいの資源があるので、それを有効活用しながら農林水産業も盛んにしていきたい。
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道路整備の波及効果
──震災からの復興事業では、三陸沿岸道路が国のリーディングプロジェクトに位置づけられ、全線開通したほか、復興支援道路となる横軸道路も整備された。住田町にはどのような波及効果があったか。
神田 高規格道路については、逆のストロー効果で人を呼ぶために必要だと、だいぶ前から整備促進を要望してきていた。ただ、現実はやはり吸われる方が多いのかなと感じている。
そうした中で、移動時間の短縮という高規格道路のメリットを生かすべきだと個人的に思っているのは医療関係。医師不足など医療資源が脆弱なこの地域においては、高規格道路を活用して医療体制強化を図り、住民福祉の向上につなげていくことが重要だと考えている。(つづく)





