生きづらさ感じる人の「居場所」整備へ 震災12年2カ月 陸前高田の元校長・佐々木さん 妻とひきこもりの次男亡くす
令和5年5月11日付 1面

東日本大震災で妻とひきこもりだった次男を亡くした陸前高田市広田町の元小学校長・佐々木善仁さん(73)は、生きづらさを感じる人に手を差し伸べ続けている。現役のころは仕事一色の生活を続け、息子のことは妻に任せっきりだった。家族に向き合ってこなかったという自責の念が今の活動の起点にある。きょう11日で震災発生から12年2カ月。不登校やひきこもりの人が安心して過ごせる「居場所」をつくるという、妻の願いでもあった構想を形にすべく、佐々木さんは動き出した。(高橋 信)
五月晴れの10日昼、佐々木さんが高田町の市役所や災害公営住宅そばにある手つかずの自身の所有地を訪れた。津波で被災した同町の自宅の換地先として、市がかさ上げ地に整備した宅地約180平方㍍。ここに不登校やひきこもりの人が自由に過ごせる施設を建てる計画だ。
居場所づくりはもともと、妻・みき子さん(享年57)の願いだった。バトンを受け取った佐々木さんが建設予定地に立ち、「できるだけ早く形にしたい」と決意を新たにした。
毎日フル回転だった教員時代。早朝に家を出て、帰宅するのはいつも夜遅かったが、「子どもと関わるのが好きで。やりがいが大きかった」。天職だった。その分、家族との時間が減り、育児や家事はみき子さん頼みとなった。
次男・仁也さん(享年28)の不登校は、中学生の時に始まった。きっかけは、佐々木さんの転勤に伴う陸前高田市から釜石市への転校。誰にもぶつけられない感情を物に向け、部屋の壁に穴を開けることもあった。「いつか学校に行くようになる」と思っていたが、盛岡市の高校に通った3年間を除いてひきこもりが続いた。
みき子さんから「退職したらちゃんと向き合ってね」と言われ、そのつもりだった。広田小の校長を務め、月末の定年退職が近づいていた「あの日」、経験のない揺れに遭った。
仁也さんは家から出ず、津波は家ごとのみ込んだ。仁也さんを外へ連れ出そうとして、避難が遅れたみき子さんも、津波に流された。
佐々木さんは家族の安否が気がかりだったが、学校に寝泊まりして児童や学校への避難者対応に追われた。3月下旬、遺体安置所で仁也さんと対面し、人目もはばからず号泣した。翌月、みき子さんも同じ安置所で見つかった。耐えがたい日々だった。
佐々木さんは震災後、みき子さんが立ち上げた「気仙地区不登校ひきこもり父母会」の事務局長を務める。同会の手伝いも生前、みき子さんから頼まれていた。「妻や息子につらい思いをさせてきた。だからこそやらねば」。後悔と表裏一体の使命感が原動力だ。
同会が毎月第3土曜日に、大船渡市猪川町の猪川地区公民館で開いている相談会。不登校やひきこもりの当事者、その家族の悩みは尽きない。一人一人の声に耳を傾け、悩みに寄り添うたびに、生きづらさを感じる人が自宅以外で自分らしくいられる場の必要性を感じた。「ひきこもりの人の居場所を」というみき子さんの夢は、いつしか佐々木さんの目標にもなった。
施設は当初、自宅も兼ねる計画だったが、一緒に暮らしていた長男が結婚を機に県外に引っ越したため、借家暮らしを続けることにした。平屋の建物に利用者が憩える広めのスペースや1人用の個室、相談室、風呂、調理場などを設ける構想。建設費や運営費は退職金とみき子さんの貯金などを充てる。助成金などに頼らないことで、利用者が制約にとらわれない自由な空間の創出を思い描く。
施設の名前も決めている。「虹っ子の会」。みき子さんが仁也さんに関する悩みを相談しに一番最初に出向いた釜石市にある不登校児の親の会「虹の会」をなぞらえた。「あそこが原点だから」。
「ひきこもりは決してマイナスなことではない。ひきこもらないよう支援に明け暮れるのではなく、ひきこもっても安心して生きられる社会を目指したい」と佐々木さん。「家族への後悔と悲しみは消えない。だからこそ2人の分まで頑張って生きる」と前を向く。