91歳 今も1人でウニ漁へ 赤崎町の志田さん 震災後引き揚げた船で 「できる限り続けたい」

▲ 震災前から乗る「恵比須丸」を操縦する志田さん

 大船渡市赤崎町清水の志田行雄さんは、91歳となった今も、1人でウニ漁に出ている。12年前、東日本大震災での被災を機に、家業の養殖漁業からは離れたが、海底から引き揚げられた漁船に船外機を付け、開口に合わせて浜の恵みを享受してきた。「俺は漁師の家に生まれ、漁師しかできない。もう辞めてしまった同級生の分も頑張りたい」。幼少から慣れ親しんだ海に、熱いまなざしを向ける。(佐藤 壮)

自ら漁獲したウニを前に充実の表情を見せる 

 市漁協管内の赤崎地区では19、20の両日、ウニ漁が開口となった。大船渡湾内分も含め、今年は開口時には朝5時すぎから毎回船を出し、漁場では箱めがねでのぞき込む。「おかげさまで目は見える」。巧みにカギざおやタモ網を操る。
 午前8時には蛸ノ浦漁港の集荷場に接岸し、殻付きの状態で出荷。「自分にしてはまずまずの出来。若い者には負けるけど、少しでも漁協のためになれば」。晴れやかな表情で船を動かし、船着き場に戻る姿は年齢を感じさせない。
 昭和6年生まれ。4歳の時にはすでに、親と一緒に海に出て、アワビやウニ漁に接した。10代から漁業を手伝い、北海道で操業する漁船にも乗る〝出稼ぎ〟も経験。気仙近海でのハモ漁や、地元漁船のイカ釣りにも長年従事し、大船渡湾内で養殖も営んできた。時代に合わせ、漁の方法も変化を強いられたが、その分多くの経験と海への知識を養った。
 12年前の3月11日午後2時46分、盛町内にいた志田さんは、経験したことのない、大きく長い地震に、すぐに大津波の襲来を予感した。普段から注意報や警報時には地域住民らとともに避難する高台に上がり、養殖棚や家々がのみ込まれた光景を目にした。
 実家は昭和8年の津波で被災し、かさ上げした場所に当時の自宅があったが、東日本大震災では無残に流され、全てを失った。当時、すでに79歳。「棚を元に戻すには、力作業がいる。みんなに迷惑をかけてはいけない。80歳を過ぎたら仕事もできないと思っていた」。養殖ではカキやホタテ、ワカメなどを手がけてきたが、再開は諦めた。
 一方で、長年乗り続けてきた小型船の「恵比須丸」は、自宅近くの浜で、がれきとともに引き揚げられた。新たに船外機を付け、市漁協の正組合員としてウニやアワビ、ナマコなど開口に合わせた採介藻漁業は続け、10年以上が経過した。
 仮設住宅暮らしを経て、防災集団移転促進事業を利用し、緑に囲まれた高台で6年前に自宅を再建。近くの道路沿いでは、ボランティアで草刈り作業も続ける。地域の支えや、自然の恵みで生かされてきた感謝を忘れず、毎日精力的に体を動かす。
 志田さんは「あしたかあさってにはもう、出られないかもしれない。浜に出ることができれば、いくらかでも生活の足しになる。今は何とか体が動く。亡くなったり、思うように動けなくなった同級生の分も頑張りたい」と力を込める。