震災12年半/未来のため 今は学ぶ時 陸前高田出身の大学生・松田さん 古里離れ見聞広げる(別写真あり)
令和5年9月10日付 1面

あすで東日本大震災の発生から12年と半年を迎える。震災当時、古里の人々がたくましく前進する姿や、移住した若者の新しい生き方に手本を示されてきた子どもらがいまや大きく成長し、「今度は自分たちがそうする番」と、それぞれの道で奮闘する姿と接するようになった。陸前高田市高田町出身で、発災時は小学1年生だった松田由希菜さん(19)=東京都、早稲田大学教育学部2年=も、故郷を離れている今のうちに力を蓄え、自らの視野と可能性を広げることで「地元に還元できるものを増やしていければ」と瞳を輝かせる。(鈴木英里)
現在も、気仙の中高生らでつくる地域貢献活動グループ「FACE」や、陸前高田市広田町を拠点とするNPO法人SETの大学生メンバーとして活動し、同市と名古屋市の中学生による交流をサポートする「絆交流チームS」にも所属。「陸前高田市街地模型ガイド」も務め、大学ではボランティアセンターのスタッフとしても働く——。
「ただの〝フッ軽〟(フットワークが軽い)なんです」。松田さんはそう言って照れ笑いするが、そのバイタリティーの片りんは中学生の時、すでにあった。
高田一中生時代からFACEに所属し、同世代と一緒に、イベントの企画やまちづくり活動に励んだ。大船渡高校に入ってからは、大学生とミニコミ誌を作った。3年時には、点字ブロック上に横田町在住のアーティスト田﨑飛鳥さんの作品を貼りつけ、視覚障害や多様性のあり方を考えてもらうプロジェクトも実行に移した。地元にいたころ取り組んだ活動だけでも、枚挙にいとまがない。
震災では自宅も被災し、いとこを含む8人の大家族で仮設住宅に暮らした。不便の多い子ども時代も前向きにいられたのは、「家族や周囲の人、震災をきっかけとしたいろんな出会いのおかげ」と、松田さんは振り返る。
復興に突き進むまちを見ながら、「大人の決めた通りにするだけではいや。私たちの中から出たアイデアを私たちで実行したい」と訴えた松田さんを、中学の恩師は一笑に付したりしなかった。その思いを受け、同市のSAVE TAKATA(現・トナリノ)がFACEを立ち上げてくれたこと、同市を拠点に活動する学生らと接したことで、「私たちのような子どもにも、『こんなことができるよ』と教えてもらった」。その経験が今の松田さんをつくりあげた。
名古屋市の中学生との交流も、大きな刺激になった。「名古屋の子たちのほうがよっぽど防災を勉強していて、本気で学びに来ていた。名古屋の方々が陸前高田をすごく思ってくれていることも知り、友達とも『やばい。うちら、何もしてなくない?』と焦ったのを覚えている。自分たちも本気にならないと、相手の気持ちに応えないと、という思いが強くなった」。被災地の出身者として、「防災」や「まちの記憶」を語り継ぐ使命感を感じるようになったのもそのおかげだ。
「地元が好き」という気持ちをはっきりと自覚したのは、中学3年生で「わたしの主張気仙地区大会」に出場した時。『私の好きなこの町』と題する主張で、松田さんは最優秀賞を受賞した。
「どうせ大人は私たちの言葉なんか聞いてくれない」「もっとキラキラした都会に行きたい」と考えていた松田さんを変えてくれたのが、陸前高田のために活動する大人たちだったこと。「地元には可能性がたくさんある」と気づかせてもらったこと。「まずは地域をよく知るのが大切」と痛感し、「中学生だからこそできることは、地域の中に入り、人と人とをつなぐことでは」と思い至ったこと——当時の作文に、今の自身の原点が見える。
とにかく「高田が好き」。だが、それ以上に今は、「高田以外のことを知りたい」と考えている松田さん。現在、葛巻町の高校生によるまちづくりのアクションをサポートしている。かつて自分がしてもらったのと同じようにだ。その中で、違う地域の課題や挑戦を見つめ、新しい視点をどんどん吸収している。
外のことを見たい・知りたい。その思いのすべてが、気がつくと「いつか、陸前高田のためになるかもしれないから」へと収束していく。
「陸前高田に戻ってくるの?」と聞かれると「戻りますよ!」と即答している自分がいる。まだ大学2年。これからやりたいこともどんどん変わっていくだろうと知りつつ、それが自身の本音なのだ。
「たとえ陸前高田にいなかったとしても、ずっと高田のために何ができるかを考えていることは間違いない。大人の人たちが地元の良さを教えてくれた分、次は私の番…と言えるぐらい、今はもっといろんなことを学びたい」と、挑戦することにためらいのない松田さんだ。