このまちの宝 次代につなぐ 市立博物館の熊谷さん 震災で唯一生き残った学芸員 支援を力に踏ん張った13年

▲ 「文化財レスキューはこの書き置きから始まった。だから入り口に置いている」。博物館跡地で発見され、展示室入り口に飾る紙を見つめる熊谷さん

 葛藤しながら津波をかぶった資料の救出に明け暮れ、前例のない修復作業の坂道を上り続けた先に、来館者の笑顔が待っていた──。陸前高田市立博物館の主任学芸員・熊谷賢さん(57)は、東日本大震災当時現場で働いた学芸員の中で唯一生き残った。上司や同僚を亡くし、大切に管理してきた文化財資料も被災したが、全国からの支援を力に変え、踏ん張ってきた。「資料はこのまちの宝物。文化財を通して陸前高田の素晴らしさを次世代に伝えたい」と誓う。(高橋 信)

 

 令和4年11月、高田町の中心市街地にオープンした新たな市立博物館。津波で全壊した同館と、同市の「海と貝のミュージアム」の機能を併せ持ち、開館後の来館者が累計8万人を超える人気施設だ。
 メインの常設展示室を入ると、まず目に入るのは1枚の紙切れ。「博物館資料を持ち去らないで下さい。高田の自然、歴史、文化を復元する大事な宝です。市教委」と書かれている。誰が書いたのかは今も分からない。「この紙がなければ今はない。資料を救出していた当時、自分たちの心をつなぎ止めてくれた」。熊谷さんがそう語る。
 熊谷さんは学芸員を志して進学した宮城県の大学で、考古学にのめり込んだ。長期休みに入ればすぐに帰省し、毎日通ったのが市立博物館。多分野で貴重な資料がそろい、「東北第1号の公立博物館はだてじゃないと、誇らしい気持ちだった」と笑って振り返る。
 民間勤務を経て市職員となり、念願だった博物館勤務が始まった。「博物館は人を育てる」との信念で、子どもたち向けの出前授業などに力を注いだ。
 平成23年3月11日。博物館に勤めていた学芸員3人を含む職員6人は全員が津波の犠牲となった。海と貝のミュージアムで働いていた熊谷さんは、同ミュージアム所管課がある市役所に向かった。博物館の学芸員らの招集先は、市役所向かい側にあった市民会館。同施設は水没し、熊谷さんは市役所の屋上からただ見つめることしかできなかった。道路1本を隔てた避難先が生死を分け、目の前の状況を理解できなかった。
 同年3月末、文化財レスキューが始まった。被災した資料は博物館、同ミュージアムを含む文化財関連4施設の計56万点に上る。がれきの山から約8割の46万点を救い出した。
 「亡くなった仲間の分までやらないと」。資料の扱いを知る元職員らに作業を手伝ってもらえないかお願いして回り、がむしゃらに取り組んだ。
 「そんなもの捜すなら、人捜せ」。ある日現地で男性から、そんな言葉を浴びせられた。
 「心がポキリと折れた」と振り返る熊谷さん。「でも、その人がそう思ったのは自然なことだと思う」と付け加えた。当時は安否不明者の捜索が盛んに展開されていた。そんな状況下、文化財と向き合うことに自分自身も違和感はあったが、「それが使命」と没頭していた。
 「葛藤があった。今やっていることが正解なのか分からなかった」。
 そんな時見つけたのが、博物館跡地に置いてあった「資料を持ち去らないで下さい」の書き置きだ。「首の皮一枚で救われた思いでした」。その後は県内、全国の博物館関係者や自衛隊などが手を差し伸べ、6月、被災現場から仮収蔵施設まで運び出す1次レスキューを終えた。
 過酷な作業は続く。回収した資料を安定化処理する2次レスキューの始まりだ。津波をかぶった資料の修復は、世界的に例がないという。トライアンドエラーの末、脱塩や油抜きなど約20の工程にたどり着いた。多くの支援を受けながら、回収資料のうち36万点近くを修復した。
 ようやく迎えた新館の開館。津波をかぶったとは思えない仕上がりの資料を見て懐かしむ来館者から言われた「残してくれてありがとうね」という言葉が忘れられない。
 「信じてやってきたことは間違ってなかった」。
 能登半島地震が起き、自身の経験を踏まえ、被災地に向けた励ましのメッセージをSNSで送り続けている。「文化財の残らない復興は本当の復興ではない」などという熱いエールを載せ、反響を呼んでいる。「助けられた分、今度は自分が」という思いからだった。
 あっという間の13年。山あり谷ありの学芸員人生は約30年になる。「展示資料は99・9%、市民から寄贈されたもの。市民に育てていただいた博物館と、地域の宝物である資料を次の世代につないでいきたい。郷里を愛する子が増えるよう頑張る」。情熱がついえることはない。