東日本大震災13年/一人の旅路ではないから 心の内の亡き人と共に 円城寺の榊原親子

▲ 閑董院宥健尊師堂にて。榊原貴晶さん㊨と昴さん

 陸前高田市矢作町字愛宕下にある閑董院別当寺、龍王山円城寺第21世住職、榊原貴晶さん(63)と、副住職の長男・昴さん(31)=東京都。貴晶さんの長女で、昴さんの妹にあたる舞さん(当時16)を東日本大震災により失った。同寺の子孫ではあったものの、それまで寺の仕事にはほとんど関わりがなかった2人。震災後も全く異なる道を歩んでいた母と息子は今、同寺を開基した宥健法印をまつる同町字馬越の閑董院の縁に導かれるように、どちらも僧侶の仕事に就いている。「同行二人」——〝仏様〟はいつもそれぞれの胸の内におり、長い旅路をともに歩んでいる——そう考えられるまでになった。

 

 13年前の昴さんは、高田高校を卒業したばかりの18歳。舞さんは同校の2年生だった。
 あの日、昴さんは高田松原でサッカー部の壮行試合に出ていた。大地震が発生した後はすぐ家に戻り、舞さんと落ち合うと、気仙沼で働いていた母に「舞は一緒。これから逃げる」という旨をメールで送った。
 しかし、避難はわずかに遅れ、気づけばすぐ足元まで迫った津波が2人を一瞬でのみ込んだ。「まるで洗濯機状態だった」——それでも昴さんはもがきにもがいて濁流から抜け出し、がれきの上によじ登ったが、舞さんの姿はもうどこにも見えなかった。
 親子が亡き舞さんと再会したのは、4月30日。昴さんの19歳の誕生日だった。さらに、遺体が見つかったのは同月24日だと分かった時、貴晶さんはくしくもという心地がしたという。前日の23日は旧暦3月21日で、閑董院で恒例の春縁日があった。「そこで『娘が見つかりますように』とお願いした翌日に、見つけていただいたのだ、と……」。
 貴晶さんは平成24年、大正大学仏教学部の3年次に編入した。
 舞さんが震災の1カ月前、ふいに「私もお寺のお手伝いをしてもいいの」と尋ねてきたことがあった。まもなく3年に進級し、進路を見つめ始めた時期。住職をしていた貴晶さんの伯父が亡くなり、舞さんの祖父が代わりを務めていた寺の仕事を、選択肢の一つとして考えていたのだ。
 「舞が亡くなった後、そのことが何度も思い返されて」
 円城寺を継ぐといった明確な意志が貴晶さんにあったわけではない。ただ、仏門に入れば娘の一番近くにいられる。真言宗智山派の総本山智積院では舞さんと同い年の若者たちに交じって修行し、僧籍を得た。
 そんな母親を見て、昴さんは安堵した。「目標とよりどころができ、母は明るくなった」。
 一方でへきえきしたのは、母が自分にも寺の勉強をしろと再三言うようになったことだ。
 昴さんは震災直後、仙台へ出ると夜の世界へ飛び込んだ。当時、ホストを取り上げた番組が全盛期の時代で、高校の時から憧れていた仕事。広告代理店などでのサラリーマンも経験した後、大宮に出て再びホスト仕事に就いていた。貴晶さんは震災を受け、「いつ何が起きるか分からない。好きなことをやりなさい」と送り出してくれたのだ。
 「あの時はそう言ってたじゃないか」と反発もした。しかし、住職となった母に「ホストとは元々、お客様をご接待する人のこと。僧侶だって、ご本尊様をはじめとする仏様をご接待するのが仕事よ」と言われたことが心に残った。
 転機は28歳で訪れた。自分を見つめ直す機会になればと、本山で1年間修行することにしたのだ。
 元々、人と交わり、人の話を聞くのが好きな昴さん。環境は厳しかったが、共同生活も座学も苦ではなかった。
 すると今度は、体系立てた学びを得たいと意欲もわき、29歳で拓殖大商学部へ入学。卒業したら地元へ戻るつもりだ。帰省した折に母を手伝い、檀家の人たちが喜んでくれるのを見て、寺の仕事に対する責任感が芽生えたのだという。
 母と息子、意見がぶつかり合うこともある。だが、貴晶さんはそんな時むしろほっとする。昴さんが震災以降、自分をとても気遣うようになったのが気がかりだったのだ。親子らしい率直なやりとりができるようになったのは、胸の傷が癒えてきた証しだと思える。
 「舞の代わりに学生をして、修行をして…私たちをここまで連れてくるため、あの子は旅立ったのだろうか」。答えは出ない。ただ、仏門に入り、亡き人はいつも心の内にいるのだと知った。
 「同行二人」。弘法大師は常に自分とともにある——遍路たちは巡礼のかさに、この言葉を書き付ける。
 震災後、バラバラに進んでいた親子の道が合流しようとしている。閑董院という光のもと、同行二人の2人の旅路はこれからも続いていく。