クレセントシティと陸前高田の関係発展へ① /「比類なき姉妹都市の形」 憧れられる交流 どう始まったか
令和6年7月10日付 7面

平成30年に姉妹都市となった陸前高田市と、米国カリフォルニア州デルノーテ郡のクレセントシティ市。日本では海外との姉妹都市交流が歳月とともに停滞・縮小していくケースも多い中、両市に関しては日米の総領事館やカリフォルニア州議会などから「まれに見る関係性」と称賛され、国際交流に携わる人々からも「活発で先進的な関係の構築方法を、陸前高田に学ばせてほしい」と熱い視線が送られる。一方、交流を意義あるものとして継続するには、市民のモチベーション(動機付け)をどう保ち、いかに輪を広げていくかが重要だ。両市の取り組みの現状を紹介し、課題と今後の展望についても考える。(鈴木英里)=文中の肩書はいずれも当時
東日本大震災で流失した県立高田高校の実習船「かもめ」が、25年4月にクレセントシティ市の浜辺へ漂着した縁で結びついた両市は、昨年で交流の開始から10年を迎えた。
高田高校とデルノーテ高校が姉妹校協定を結び、生徒が毎年交互に現地を訪ね合って「かもめ」が育んだ友情を長く伝えていく――スタートはそういったものだった。だが、「それだけでとどめたくない」と、最初に交流の広がりを望んだのはクレセントシティ側であった。
同市と陸前高田とは、太平洋を挟んでおよそ7600㌔の距離がある。23年の大津波に襲われたまちから、同じく津波被害を受けたまちへ2年がかりで実習船がたどり着いたことに、デルノーテ郡の人々は強く胸打たれ、これを「奇跡の物語」として受け止めた。
「『かもめ』は私たちのまちを〝選んで〟来てくれた。2市が結びついたのは決して偶然ではなく必然だった」「この関係を生徒たちだけでなくもっと大きなものに広げよう」。ブレイク・インスコア市長、デルノーテ郡議会のクリス・ハワード議長は29年2月に陸前高田市議会を訪れ、姉妹都市協定締結を視野に入れた熱烈なラブコールを送った。
同年10月には同市議会の伊藤明彦議長が招かれて渡米。「文化、商業、災害への備えと復興への取り組みについて学ぶよい機会となることを願い、双方の一般市民や指導者らと絆を結びたい」などとする「宣言書」を託された同議長は「市民全体で歓迎してくれている空気を感じた」と語り、現地の大きな〝熱量〟を最初に肌で感じた一人だった。 また、30年2月には、市と議会、産業、観光関係者らによるクレセントシティ訪問団が陸前高田を訪れ、再び交流深化を熱望。歓迎会場でブレイク氏が「われわれは両市の間柄について真剣に考えている。都市圏から離れているなど、同じような課題を抱える二つの市が一緒にできることはたくさんある」と訴え、戸羽太市長がこれに応える形で「4月に陸前高田市民訪問団としてクレセントシティを訪れ、姉妹都市提携の話を進めたいと思うがいかがか」と問うと、市民が大きな拍手で賛同の意を表した。
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陸前高田サイドは当初、「市民や高校生同士が時折、行った来たりする」という以上の交流について具体的にイメージできていたわけではなかった。
しかし、「文化、商業、災害への備えと復興への取り組みについて学ぶよい機会」という宣言書、「二つの市が一緒にできることはたくさんある」というブレイク氏の言葉は、形式的なものでもなければ、生半可な気持ちで語られたものでもなかった。
正式に姉妹都市協定を結ぶと、クレセントシティ側からは間を置かず、漁業・農業などの第1次産業や、商業者同士で分かち合えることはないか、既存の産業を互いの市で生かせる形はないか、と熱心な働きかけがあった。
「双方に実のある関係性でなくては長く続かない。特にビジネスの面で、地域にもたらされる利益もなくては」という呼びかけは、想定以上に強く、また実際的な提案を伴ったものだった。陸前高田市と市民はほとんど〝圧倒〟される形で、姉妹都市との付き合い方と真剣に向き合わざるをえなかったと言ってもいい。
しかし、それこそが「他に類を見ない姉妹都市」と称される関係を築くことになっていったのだ。