追悼/新沼留之進棟梁(93)逝く 甦った孤高の木造船建造論
令和6年7月31日付 7面

たしか今年4月か5月ごろだったろうか。いつもの日課で、震災により散逸した資料の整理をしていたら、中から1枚の茶封筒が出てきた。
差出人は、旧知の気仙沼市・出版社代表K氏で、連絡欄に、「送っていただいた気仙丸の関係記事、写真および座談会の冒頭部分、テープを起こしました。校正のうえ、送り返しを」 とある。
原稿は、A4判計4枚。
座談会に出席したのは、新沼留之進棟梁、同じく建造に参加した気仙大工研究の平山憲治さん、企画立案の鈴木周二、出版社代表K氏の4人。
座談会が、いつ・どこで開かれたのか、残念ながら記憶にない。
ちなみに、原稿が送られてきた日付は「平成4年7月3日」である。
これからして、出版社としてはたぶん、『三陸海の博覧会』(主会場・釜石市)の開催中(平成4年7月~同9月)に、日本で初めて弁才船の復元建造を成し遂げた気仙船匠会の活躍ぶり、および晴れやかで終始にぎわった博覧会の模様を組み合わせた〝記念アルバム〟を出版する企図であったに違いない。同時に、個人的にはこうも思わざるを得ない。
4人による座談会は、結果的に出版の日の目を見ることはなかった。
平山さん、出版社のK氏はすでに鬼籍に入り、いままた新沼棟梁の訃報…思いがけない32年前の座談会資料との遭遇は、やはり〝虫の知らせ〟であったのか。
気仙丸─白山丸(佐渡)─浪華丸(大阪)─みちのく丸(青森)
4隻のそれぞれ建造交渉・契約(トップ会談で決定)のため、何度棟梁と行動を共にしたか(5隻目の山形・酒田丸=仮称=は2度にわたる酒田行も、結局は未成立に終わる)。
弁才船は江戸中期に瀬戸内海で使われだした輸送船。千石積の大型船もあった北国船などに対し、弁才船はもともと500石積以下の中小型の廻船であった。
その後、耐航性と帆走性の向上、航海の迅速化、乗組員の削減などによって、弁才船による海運業は全盛期を迎える。
その経済的効果は、三陸・気仙をはじめ全国の海域にも及んで住民たちの生活向上に大きな役割を果たした。
新沼棟梁をはじめとした気仙船大工の優れた技量は確固たる「歴史の再現」であり、その足跡は永久に消えることはない。
終わりに、「未完」となった座談会(冒頭部分の棟梁発言)を別項に掲げ、心からご冥福を祈るものである。(鈴木周二気仙船匠会顧問・元東海新報編集長)
木造船建造論(要旨)
鈴木 かつて昭和43、44年ごろまで気仙沼や気仙地方で行われていた木造漁船の建造と千石船の建造では、当然異なる部分が多いと思われます。棟梁ご自身、木造漁船建造には携わられてきたが、千石船の建造経験はなかったと思います。千石船の設計や建造手順など、どのようにして会得されたのですか。
新沼 船の設計図面というものは、私自身設計屋ではないので、それほど綿密なものを描いたわけではありません。
木造船建造については、一応の「情報」があります。つまり、<割合>の出し方というものがあって、それに即した設計理論が必要なわけです。このほかにも、復元力の問題、水の抵抗の問題、風力の問題、船体の強度、積み荷の問題等々、いろいろ外的な要件と絡めた理論が前提となって設計されなければならない。
しかし、それらの理論値をもとにして設計されたものでさえも、例えば、スペインで復元されたガレオン船が、進水時に転覆したという例にもみられるように、絶対的ではない。
いくら理論に合致した設計であっても、木というものは微妙なものであり、鉄など金属や現在の新素材などは、重量といったものは簡単に算出される。つまり1㌧の鉄板ならどれだけの面積となりその重量計算は単純にできるのだが、木となると重量はそれぞれ、まちまちです。
ある程度の目安となる比重率はある。例えばケヤキなら35%、スギの乾燥材なら25%、マツなら28%という具合に…。それらの比重率によって計算するが、ところが同じスギ材であっても、水分の含有率とか、生育した山の場所々によって非常に重い木と比較的軽い木がある。
そういった素材としての木の基本的なことを知らないと木造船はできない。単に図面やグラフだけでは設計できないというのが、木造船の場合にはあるわけです。