きょう終戦79年 持ち主分からぬ「出征旗」 シベリア抑留の故・村上芳吉さん(広田町)が保管

▲ 生前、村上芳吉さんが神棚に残した出征旗

 きょう15日は、79回目となる「終戦の日」。陸前高田市広田町長洞の村上みき子さん(73)は、太平洋戦争下で出征し、シベリア抑留後に戻った父・芳吉さんが残した出征旗の〝帰還〟を望み続けている。芳吉さんに贈られたのではなく、戦地かシベリアで手にしたとみられ、自宅の神棚に置いたまま死去した。みき子さんは、戦争の無残さや悲しみが残る日の丸の帰り先を探しながら、さまざまな思いを寄せる。(佐藤 壮)

 

長年にわたり自宅神棚に

今も残る〝戦地の友〟への思い

 

出征時の芳吉さん(みき子さん提供)

 大きく「武運長久」と記され、多くの名前が連なる日章旗。軍人としての命運が長く続くことを祈り、出征旗として贈られる。戦没者の遺品や遺骨がない場合、数少ない形見にもなる。
 そこには、芳吉さんや、親族の名前はない。一般的に「~君」と出征者の名前が揮毫されることも多いが、左端が欠損していることもあり、出征者が判別できない。
 長らく、村上家の神棚に置かれていた。6年ほど前、解体する前に整理した際にみき子さんが見つけた。「富士山登山で使用した杖も、一緒にあった。大事にしていたんだと思う」と語る。
 大正3年生まれの芳吉さんは、太平洋戦争下で何度か出征し、満州で昭和20年8月の終戦を迎えたという。シベリアで厳しい抑留生活を送り、同24年に帰郷した。2年後、みき子さんが生まれた。
 大工でもあり、抑留先での作業も建築系が多かったと聞いていた。帰国後も、北海道などへの出稼ぎが続いた。生前、みき子さんに、戦地や抑留先での日々を詳しく伝えることは、ほとんどなかった。
 一方で、戦地の友のつながりを大切にしていた記憶は、今も鮮明に残っている。芳吉さんをはじめ満州に出向いた第45野戦道路隊所属の戦友による「四五野道会」の資料をつづり、何度も目を通していた。
 残された出征旗の寄せ書きには、地元ではなじみの薄い名字も多い。戦地で誰かに託されたのか。どこかで見つけ、日本に持ち帰らないといけないと感じたのか。それとも、別の特別な思いがあったのか──。
 芳吉さんは平成15年に死去し、今、その真意を聞くことはできない。みき子さんの母・ツネさんも、6年前に98歳で亡くなった。
 みき子さんは、太平洋戦争下で出征した親に育てられた知人に預けるなどして、手がかりを探る。今月6日には、高田町で開催された、2024平和運動気仙地区実行委員会(委員長・梅木傳連合気仙議長)の「戦中戦後のくらし展」にも足を運んだ。そこには、芳吉さんが残したものと同じく寄せ書きされた日章旗も、掲げられていた。
 戦地に出向く前に贈られた人の親族にできれば手渡したいが、広く目に触れる場所を運営する団体などへの寄贈も考えている。みき子さんは「人ごとではないと感じたから、持ち帰ってきたのでは。きっと、父も父なりに探したんだと思う」と思いを巡らせる。
 ロシアによるウクライナ侵攻をはじめ、令和の時代も、戦禍が絶えない。「戦地で命を落としたり、戻れなかった人たちの無念さも感じられる」。父が大切にし続けた日の丸に、恒久平和の願いを込める。