阪神・淡路大震災から30年 犠牲者らの心に寄り添う 神戸市で「つどい」 気仙など各地でも追悼行事(別写真あり)

▲ 神戸市の東遊園地内に設置された紙や竹の灯ろうの光で浮かび上がる「よりそう1・17」の文字=17日午前5時46分

 阪神・淡路大震災発生から丸30年の17日、被災した兵庫県神戸市をはじめ全国各地で追悼行事が行われた。発災時刻の午前5時46分には、同市中央区東遊園地で「1・17のつどい」(実行委主催)が開かれ、集まった多くの人々が追悼や防災・減災の思いを共有。陸前高田市でも、神戸市の有志との縁で東日本大震災発災後に設置された、小友町の気仙大工左官伝承館のガス灯「3・11希望の灯り」の前で市民らが祈りをささげた。

 

 神戸市の会場には、竹灯ろう約2500個と紙灯ろう約4000個を設置。「よりそう1・17」の文字をかたどった。
 早朝から多くの人が訪れ、会場を埋め尽くしていく中、午前5時ごろには、同園地に設置されている震災犠牲者を悼むガス灯「1・17希望の灯り」の火を灯ろう一つ一つに分灯。発災時刻には黙とうが行われ、暗がりに浮かび上がった幻想的な光の文字が、手を合わせる人々の表情を淡く照らした。
 黙とうのあと、震災で母親と弟を亡くした神戸市の男性が、遺族代表としてあいさつ。「ここ神戸に住む震災を知らない世代だけでなく、より多くの方々に防災・減災のスタートラインに立ってもらえるよう、これからも震災から得た教訓を語り継いでいく」と、決意を語った。
 東日本大震災後に陸前高田市で支援活動を展開し、「3・11希望の灯り」の分灯も行ったNPO法人・阪神淡路大震災「1・17希望の灯り」の代表理事で、つどいの実行委員長も務めた藤本真一さん(40)は、「皆さんが集まれる場所を今年もつくることができてよかった。神戸の30年でできたことは、東日本でもきっとかなえられる。僕らの頑張りが気仙の皆さんの学びとなるよう、これからも互いに寄り添いながら活動を続けていきたい」と話していた。
 阪神淡路大震災は、平成7年1月17日に発生。淡路島北部の深さ16㌔を震源とするマグニチュード7・3の大地震となり、最大震度7の揺れが都市を襲った。建物倒壊や大規模火災などにより、死者は6434人にのぼった。
 つどいは、震災犠牲者の追悼や、震災をきっかけに培われた絆、支え合う心の大切さを次世代へ語り継いでいくことを目的に、神戸や東京に会場を設け、多数のボランティア協力を得て毎年実施している。(神戸市・鈴木英里、阿部仁志、菅野弘大)

 

 【平成25年1月に神戸市を訪問、防災に取り組む「陸前高田ハナミズキのみちの会」代表の淺沼ミキ子さん(61)】 東日本大震災の直後から支援に入ってくれた神戸市のNPO「1・17希望の灯り」の方が、津波で長男を亡くした私に「俺も息子を失ったんだ」と言って写真を見せてくれた。「自分たちがつらい思いをしたからこそ、東北の力になりたい」と全力で寄り添ってくださる、そのお気持ちがありがたかった。私も12年前に東遊園地の「1・17のつどい」を訪れたが、発災から18年が経過してなお、小さな子どもを含む大勢の人が追悼のために集っているのを目の当たりにし、「震災の事実と教訓を絶対に風化させまい」という兵庫の方々の強い意志を私自身の背中に乗せてもらったように感じた。東日本の被災地でも震災からの歳月は経過していくが、神戸の取り組みや皆さんの思いの強さに力をもらいながら、私も命を守る大切さをずっと伝え続けていきたい。
 【30年前の震災で甚大な被害を受けた兵庫県芦屋市出身、陸前高田市防災課長・中村吉雄さん(52)】 今でこそ大きな自然災害も増えたが、当時の日本ではあれほど壊滅的な被害が出るような大規模災害は、ほとんど初めての経験。日本人が防災について考える大きな転機となった。「自助、公助、共助」という考え方を一般的にし、平時から備える大切さを教えてくれた震災であったと思う。しかし30年の間に居住者は大きく入れ替わって風化は進み、今では兵庫県内でも、震災を知る人、災害への備えを意識している人のほうが少数派になってしまっている。一部の住民だけが懸命になって教訓や防災を伝えていこうとしてもだめで、やはり市民一人一人の意識を醸成することが大切だ。30年を機に改めて、「自らの命と地域は、自分たちで守る」ということを皆で考え直していく必要がある。
 【東日本大震災後、阪神・淡路大震災由来の「はるかのひまわり」を植え続けている陸前高田市高田町の元中学校長・村上洋子さん(67)】 平成23年の大震災発生から間もなく、当時勤めていた釜石市の釜石東中学校で、埼玉県から訪れた絵本作家からはるかのひまわりの種を数個受け取った。「がれきに埋もれ亡くなった神戸の女の子・はるかちゃんが発見された場所から咲いた奇跡のヒマワリ」という由来のある種であることを知り、それからは職場や住居の畑などにまいた。高台に自宅を再建後の今も近くの畑を借りて育てており、秋にとれる種は気仙内外の人に配っている。昨年は、その種から育ったヒマワリが、能登半島地震の被災地に届けられたという報せを受けた。震災後に知り合った人が、自宅を訪れてくれることもある。こうした心のつながり、〝絆〟と言われるものが防災や減災につながっていくものと感じており、これからもご縁を大事にしていきたい。