東日本大震災14年/継承したプロ集団の誇り胸に 3代目社長・吉田さん前向く 津波で建設会社先代の父亡くす
令和7年3月11日付 7面

陸前高田市竹駒町の㈱吉田建設代表取締役・吉田光伸さん(55)は、東日本大震災を機に3代目社長に就いた。先代社長で、父の愛次郎さん(享年68)は「あの日」の津波で亡くなった。社屋や自宅も失ったが、まちの復興のため、木造住宅建築をメインにがむしゃらに働いてきた。11日で発災から14年。市内のハード復旧は地元の建設業界などの奮闘で、今春完了となる。「おやじとけんかしながら仕事したかった」。吉田さんは割り切れない思いを抱えながらも、父から継いだ建築のプロ集団としての誇りを胸に歩みを進める。(高橋 信)
「おやじとけんかしながら仕事したかった」

故・吉田愛次郎さん
吉田さんは建築系の専門学校を卒業後、都内の建設会社に就職。20代半ばでUターンし、吉田建設で働いた。
経験を積む中で気付かされたのは、会社経営の責任の重みだ。「おやじからは『社員が1人いれば、その後ろに(家族など)5人いると思え』といつも言われた。おやじの代わりはできないと思った」。事業承継は、話に上がるたびに拒んできた。
そんな中で起きた未曽有の大災害。竹駒町大畑の会社にいた吉田さんは、高田町内に住む親戚の様子を見に行くよう母親から頼まれ、車で向かった。
愛次郎さんは、会社のそばで津波にのまれた。当時事務所にいた吉田さんの妻や母らは、かろうじて高台に逃れることができたが、愛次郎さんは間に合わなかった。事務所や工場、敷地内にあった自宅、所有する車両、資機材などすべて流された。
「おやじなら大丈夫だ」。吉田さんはそう信じたが、愛次郎さんは次の日になっても現れず、覚悟せざるを得なかった。
家族らとともに一面に広がるがれきから、行方不明の愛次郎さんを手作業で捜索していると、「重機を持ってくる」と被災を免れた市内の林業関係者が協力を申し出てくれた。行き着いたであろう場所を推定し、重機で山積みのがれきをかき分け、隙間が一筋の道のようにできると、その先で愛次郎さんが見つかった。
発見日は、発災4日後の3月15日。吉田さんの長男の誕生日だった。額に少し傷がある程度で損傷はほぼなかったという。吉田さんは「生きているようにしか見えなかった。重機を出していただいた社長には、感謝してもしきれない」と振り返る。
経営者としての義務感は自然と湧いた。「じいちゃん、おやじとつないできた会社を、震災で終わらせることは絶対しない」。マイナスからのスタートを強いられたが、20人近くいた社員の中に犠牲者はおらず、「吉田特有の技術は丸々残った」と奮い立つ原動力となった。
会社跡に置いたプレハブの小さなユニットハウスに、「吉田建設」と記したA4用紙を看板に見立てて貼り付け、がれき撤去から開始。早朝から夜遅くまでの勤務が日課となった。
「何もない小さなプレハブだったが、それでもお客さまが来てくれて、本当にうれしかった。満足する住まいを提供しなければならないと思った」。最先端の断熱技術を独自に学び、国内トップレベルの住宅性能を提供する技術者集団を目指した。平成29年には青年技能者の日本一を決める「技能五輪全国大会」出場者も会社から輩出した。
令和5年、後回しにしてきた事務所の再建を果たし、社屋正面には会社のロゴマークを新たに設置した。吉田建設の「y」と愛次郎さんの名前にちなんだハートをモチーフにしたデザイン。震災前から親しまれた同社シンボルカラーのエメラルドグリーンで表現した。「震災前までの伝統を引き継ぐ」という決意を込めた。
「いい意味で、おやじとけんかしながら仕事したかった。もっと教えてもらいたかった」と、つらさは癒えない。ただ、遺族としての悲しみ、被災事業者の大変さを普段は口に出さないよう心がける。「被災した経験は私一人ではないから」。
「家の建築・リフォームという仕事の責任は重大で、〝おだった〟ことはできない。『吉田に頼んで良かった』と言ってもらえるよう頑張る」と前を向く。