赤崎・綾里大火鎮圧 東日本大震災14年 復興への道 新たな局面に 避難指示全地域で解除 被災者支援、なりわい再生へ
令和7年3月11日付 1面

9日は全国から集まった緊急消防援助隊や県内応援隊に加え、地元消防団も山林などで消火活動にあたった。再燃しないよう地道な作業を続け、鎮圧に向けた確認も大きく進んだ。
火勢が制御下に入り、拡大の危険性がなくなったことを受け、同日、現場最高責任者である大船渡消防署長と市長、消防団長が防災ヘリで上空から確認し、鎮圧宣言に至った。
同日は、赤崎町の大立、永浜、清水、蛸ノ浦の4地域計361世帯882人の避難指示が解除。10日は綾里の全域と、赤崎町の合足、長崎、外口の3地域計979世帯、2424人も戻れることになり、防災行政無線などで告げられた午前10時から順次、住民が戻っていった。
全壊15棟を含む住家26棟の被害が確認された、綾里の港地域。綾里漁港を見渡せる高台に暮らしていた佐藤長治さん(82)は、避難していた越喜来の三陸公民館から自宅の敷地内に足を踏み入れ「あーあ、もう笑うしかないな」と話した。
出火当日の2月26日は消防関係者に避難を促されると、慌てて自宅を離れ、命をつないだ。翌日には、自宅が被災したことは知っていた。無念さをにじませながらも、穏やかな海を見つめ「ここから毎日、海を見て漁に出ていた。綾里から離れることはできない。船は無事。また、漁に出る」と話した。
近隣に構える森下幹生さん(75)の自宅も、全焼していた。「まさかこの地域に火災が来るとは思わなかった。思い出の品が少しでも残っているだろうか」と語った。
全壊した住宅の隣に、ほぼそのままの状態で残る建物もある。面的に被害を受けた大津波とは異なる爪痕が広がる。住家被害を免れた地域でも、すぐそばの山林が焦げていた光景が見られた。容赦なく燃え広がった火の手だけでなく、建物への延焼を食い止めようと、空中と地上両面から消火活動が展開された足跡が残っていた。
延焼を免れた住民も、複雑な心境を口にした。窓ガラスが割れる程度の被害にとどまった同地域の小濱ヒデ子さん(77)は「決して喜べる状況ではない。被災した人たちは、ずっと一緒に行動してきた。みんな、戻って来れるだろうか」と、表情を曇らせた。
9日夕方の段階で、10日に避難指示が全解除される見込みが示されたこともあり、同日の避難所では、利用者が片付けや清掃に励む姿が多く見られた。綾里地区の住民は出火当日から12日間にわたり避難生活を強いられたが「今回は津波を受けた人々に助けられた」と感謝を寄せた。
越喜来の三陸公民館近くに位置する三陸サイコー商店会内で、衣料品や寝具販売などを手がける「かねまさ」(佐々木政紀店長)では、避難所開設以降、避難者に対する衣料品の提供を続ける。商店会内の集会所も開放し、心安まる空間も設けている。佐々木店長(73)は「14年前は家も店舗も工場も失い、着の身着のまま逃げたから、気持ちが分かる」と話す。
赤崎・綾里大火は焼失面積が約2900㌶と平成以降では国内最大の規模に及び、最大で1896世帯4596人に避難指示が出された中、自衛隊や市内外の消防関係者らによる懸命の消火活動が展開され、発生12日目で鎮圧となった。綾里地区で男性1人が死亡し、建物被害は現時点で210棟が確認されている。
家を失った人々の生活再建だけでなく、基幹産業である漁業をはじめとしたなりわいの立て直しへの対応も急務。長期間にわたり人々が地元を離れたことによる産業面や地域社会への影響は、現段階では全容をつかめていない。甚大な被害を受けた地域のコミュニティー再生、被災者の心のケア、林業や水源のかん養機能を担う山林環境など、懸念は尽きない。
鎮圧や避難指示解除の節目は、復興を見据えて山積する課題に本格的に向き合う始まりとも言える。東日本大震災から14年の大船渡市は、新たな局面を迎えた。