生糸が紡いだ気仙と万博 世田米の瀧本家に 125年前の賞状とメダル残る

▲ 瀧本家に残る1900年パリ万博の賞状

 大阪府の人工島・夢洲(ゆめしま)で開催される日本国際博覧会(大阪・関西万博)の開幕まで、残り2週間を切った。国際交流や技術・芸術の発信、地球規模の課題解決に向け、世界各地から英知が集まる万博は170年余の歴史を持つが、125年前の第5回パリ万博で、気仙郡世田米村(現・住田町世田米)で作られた生糸が出展され、表彰されていた。これを証明する賞状とメダルが、世田米地区の神職・瀧本正德さん(77)宅に保管されている。気仙と万博を結ぶ資料について、瀧本さんは「貴重な記録として、これからも大切に残していきたい」と話している。(清水辰彦)

 

 国立国会図書館電子展示会の資料によると、ドイツやアメリカが重工業部門によって目覚ましい発展をとげていた1890年代、フランス共和国政府の関心は「テクノロジー」から高級な「手工芸・装飾芸術」へと移っていた。1900年のパリ万博は、国際競争においてフランスの優位を実現できるような万博を開催することで、フランス本来の特質とされる洗練された優美さを武器にファッションや織物、装飾品、家具の分野を推進しようとの考えに基づいたとされる。
 第5回パリ万博の出展品の分類は国別の陳列ではなく、芸術、農業、機械など18分野に分けられ、各分野をさらに121部門に細分化した展示が行われた。
 瀧本さん宅に残る賞状には、「EXPOSITION UNIVERSELLE DE 1900」(1900年の国際博覧会)、「MEDAILLE DE BRONZE」(銅メダル)という文字が書かれている。その下には「FILATURE DE NAKAZAWA a IWATE─KEN」(岩手県の中沢の製糸工場)と記載されている。
 この製糸工場は明治前期、現在の住田町世田米中沢地域に、世田米村の神官・教職であり、地域の産業指導者としても活躍した瀧本可守(たきもとかもり、1840〜1907年)が開設した工場を指しているとみられる。
 可守は同志を募って製糸工場の建設と経営に乗り出し、県当局の蚕糸業組合規則の発布により、明治19(1886)年、気仙で第1号となる世田米中沢生糸生産販売組合を組織し、汽力と水力の両方で機動する近代的な製糸工場を完成させた。可守はさらに技師の派遣を県に依頼したり、工女も各地から募集。会社の名称を「中沢社」と決め、規約などをつくり、自身が社長に就任した。
 「岩手県蚕糸業史」には可守について、「地方養蚕業の遅れを嘆き、村民を説得し、自ら製糸業の改良を実践、地元民の協力を得て中沢製糸場を設立、気仙地方の組合製糸の発端をつくる。このことにより地域の養蚕を一層盛んにする原動力となった」との記述が残っている。
 賞状には「GROUPE 」「CLASSE83」との文字が書かれており、グループ13の中の部門83に、この製糸工場で作った生糸を出展したと考えられ、かつての地域内での製糸産業の隆盛を物語る。
 瀧本家は昭和8年に火災に見舞われたが、当時、賞状とメダルは偶然にも別の場所に保管していたため、難を逃れたという。
 可守の玄孫にあたる正德さんは、「感慨深さもあるが、インターネットもない時代に、どのような経緯で万博のことを知り、出展したのか、そこが一番気になるところ」と興味深く賞状を眺めつつ、「国を挙げて生糸を輸出していた時代があり、そのつながりかもしれないと聞いたことはある。いずれにせよ、気仙と万博につながりがあったことを示すものなので大切にしたい」と話す。